2009年11月 5日 (木)

『 ココロのカタチ 』

昭和40年代の話しです。


二つ違いの仲良し姉妹のお姉ちゃん、カナちゃんと妹のメグちゃんは、
いつもおそろいのお洋服を着て、どこへ行くのにも一緒にお出かけをしていました。

おとなしいお姉ちゃんのカナちゃんは、お稽古事のピアノもお習字も、黙々とこなし、宿題などは必ず終わらせてから遊びに行く、堅実な性格の女の子でした。

それに対して妹のメグちゃんの方は、まずは自分の遊びたい遊びをして、さて、もう時間がないというところで、ピアノの課題曲をマスターしたり、宿題を終わらせるという要領の良さと行動力を併せ持つ活発な女の子でした。

これは『蟻とキリギリス』や『ウサギと亀』のようなお伽話ではありません。


そんな二人でしたが、お姉ちゃんのカナちゃんはショートヘアー。
メグちゃんの方は、長い髪を『三つ編み』にしたり、『ポニーテール』にしたりと変幻自在のヘアスタイルを楽しんでおりました。

メグちゃんは、クリクリしたぱっちりお眼々で、また末の娘(むすめ)という事もあり、彼女の人懐っこい性格が相まって、周りの人から随分とちやほやされていました。

お姉ちゃんのカナちゃんも姉妹良く似た可愛らしい顔をしていましたが、どこか大人びた表情で、おすまし屋さんの印象の強い女の子でした。


二人に遊び道具の取り合いや、物事の順番をめぐった争いが始まると、

『お姉ちゃんなんだから、…』

というセリフでカナちゃんはいつも我慢をする役をはたしてきました。

小学生の小さな女の子に刻み込まれた一つ一つの体験は、彼女のハートをどんなに揺るがしていたことでしょうか。


時は経ち、姉妹が中学校に上がってからのこと。
家族で懐かしいスナップ写真のアルバムを開いていました。
すると、一枚の写真に皆が異和感を覚えました。

それはカナちゃんが一人で写っている写真でした。

太陽がまぶしいのもあったのでしょう。
カナちゃんは珍しく眉間に皺を寄せて、上目遣いにカメラを睨みつけていました。

子どもらしい愛くるしい表情です。
が、しかしです。
この一枚の写真には嘘がありました。

カナちゃんの髪には、無いはずの『三つ編み』が不自然な姿でお下げになっていたのです。

カナちゃんは幼心に、どうしてもメグちゃんと同じように『三つ編み』を結いたかったのでしょう。
そして皆にちやほやされたいという一つの『憧れ』の象徴だったのかもしれません。
それを我慢していた心がいつの日か、油性『マジックペン』で写真に描き込むというカタチで表れてしまったのです。

おとなしい娘(こ)だったので、まさかカナちゃんがそんな風に思っていたとは、お母さんは露ほども感じていなかったそうです。

そして当のカナちゃんは、写真に自分で『三つ編み』を描き込んだことを覚えていませんでした。


それから30年以上経った現在、カナちゃんも二つ違いの姉弟を持つ二児の母です。
彼女の子供達の言葉にできない心の声が、はたしてどれくらい聞こえているのでしょうか。

まさか末の男の子の写真に『三つ編み』が描かれるなんてことは……。

               (了)               

※ この話しは、事実に基づいて書かれたフィクションです。

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2009年10月30日 (金)

『 中秋の名月  ー その後 ー 』

あの後、
(『中秋の名月 ー1ー 』参照:http://minoru-iroiro2.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-cc69.html

月を特集したテレビ番組が民放局で放送されていた。
(テレビ朝日の『奇跡の地球物語』http://www.tv-asahi.co.jp/miracle-earth/trailer/cur/だったようだ。)

例の『45億年前の月がどのように見えたか…』を映像でも表してくれていた。
僕の一番興味のあったことだ。

今より200倍も大きく見えたのだそうだ。

テレビ画面の下の方に、一割の半分か三分の一(五分から三分)程の水平線があって、そこにかかるように29インチのブラウン管の画面ほぼ六、七割を覆うようにまんまると表されていた。

およそ20年前、アニメ『宇宙戦艦 ヤマト』のラストシーンで映し出される、

『地球滅亡まで、残り 幾日…』

のテロップが流れるときのカットの地球くらいの大きさだ。
分かりにくいなぁ。


月のでき方として有力視されている『ジャイアントインパクト説』なるものの説明があったのかな、


『ジャイアントインパクト説』:(1975年、ウィリアム・ハートマン氏と、ドナルド・デービス氏による科学雑誌『Icarus』へ掲載された論文)

約46億年前に地球が形成されてまもなく、火星と同じくらいの大きさの原始惑星(『テイア:Theia』)が、斜めに衝突したと考えられる。

原始惑星は破壊され、その天体の破片の大半が無色鉱物に富んだ地球のマントルの大量の破片とともに宇宙空間へ飛び散ったのだそうだ。

破片の一部は再び地球へと落下したが、正面衝突ではなく斜めに衝突したためにかなりの量の破片が地球の周囲を回る軌道上に残った。
この破片はすぐに冷え固まり、粒子となった。

この粒子が、一時的に土星の環ように円盤を形成した後、さらに相互に衝突を繰り返していき、『月』が形成されたと考えられている。
ジャイアント・インパクトから、およそ一ヵ月だそうだ。

他にも、月に引力があるから潮の満ち引きがあるとか、

地球の回転軸が約23度傾いているから、四季がある。
それには、月の存在が大きく影響しているとか、
(調べてみると、影響があるのではなくて、暦をつくる上で、重要だったということを言っていたのかもしれない。)

月光写真家の石川賢治さんの神秘的な写真を紹介していたり、
http://gekkouyoku.com/

用をしながらだったので、それくらいしか覚えていないけど、
今後『月』についても、注目していってみようと思ったのだった。


とにかく僕の知りたかった、当時の『月』の見え方が分かっただけで良かったのだ。

『約45億年前の月』の図

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               (了)

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2009年10月25日 (日)

『 お祭り 』 ー 秋・休日 ー

九月から業務内容が変わり、土日祝日に仕事を休むことが増えてきた。
十数年ぶりのことだ。
サービス業に従事していたので、仕方がないところと納得していた。

平日休みに慣れていると、週末の人出や、料金の違いに面食らうことがある。
が、しかしである。
土日といえば、『お祭り』だ。

大好きなお祭りを見て回れることは、僕にとってこの上ない悦びである。
なので、ここにきて自宅の近所のや、都内の見たかったお祭りをいくつか見物した。

何が良いって、根っから好きなので考えなくたって思いつく。

まず、「町の雰囲気」が良い。
参加している人達の表情が楽しげで、ふわふわ、ワクワクしている。
もちろん、神事として真剣な顔をして取り組んでいる人もいるけどね。


軒先に揺れる「提灯」、玄関の「花飾り」や「しめ縄」を見れば、
『あぁ、お祭りだぁ。』と僕の心はときめき、
(近頃はお祭りでも飾られてない町も多いので寂しいけどね。)
朝から昼から商店街のスピーカーから一日中流れている「お囃子」の音色を聞きつけると僕は浮き足だつ。
そしてこれが、なんとも心地よい響きなんだなぁ。
『癒される』という言葉がまさにぴったりである。

また、町自体も、ときめいているように思える。


「御神輿」、「山車」、「曳山」。
年に一度、町に降りてくる神様を乗せて渡御する御神輿は、いわば移動式の神社だ。
厳かで、歴史を感じさせる造りは、熟練した職人達の技の粋(すい)が凝縮されている。
鋳物、彫金、彫刻、漆塗り。
鳳凰や雲形、欄間に、飾り幕。

「神酒所」や「御仮屋」のつくり、そこに飾られる竹や葭簀(よしず)の仕立て具合を見るのも楽しい。
青竹の組み方、荒縄、こまい縄(細い縄だから、「こまい縄」)、黒いけどし(ゅ)ろ縄(棕櫚縄)。
それらの結わき方なんかも、その町の鳶頭(かしら)によっていろいろだから面白い。
正確な技だけでなく、経験を重ねた職人の趣向が凝らされている。


「半纏」に「浴衣」、「手拭」なども堪らなくイイ。
江戸文字、に文様。
洒落がきいてたり、小気味良かったり、染めの色も柄もどれをとっても飽きることがない。
自分の名前を江戸文字で書いてみたりもする。
会の半纏も三着目だけど、襟に書かれた名前は自分で書いたものを染めてもらっている。
浴衣も手拭もたくさん持っていて、集めたりもしているが、オリジナルのものが多いので楽しいし、嬉しい。


お祭りのなにもかもが、小学生の頃から好きだったけど、何が良かったのか、どうして好きになったのか。
きっと『カッコイイ』し『楽しい』と思ったのは間違いない。

『御神輿』は『スーパーカー』のようにフォルムやパワーを感じ、
『担ぎ手』は『プロレスラー』のような勇猛さ、力強さ、
『山車や出店の屋台』は『遊園地』のように、…

それくらい、単純に憬れていたのだと思う。


今度はどこのお祭りに出かけようかな、と思っていたら、11月からまた土日出勤になっちゃった。
お祭りはまた、暫しお休み。


               (了)

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2009年10月18日 (日)

『 タイフーンラッシュ 』 

本土に上陸するのは、およそ30年ぶりと言われた大きい台風が日本を縦断した。

首都圏はちょうど通勤時間帯に直撃を受け、大雨と暴風に混乱を余儀なくされる。
(それにしても、台風がまだ近所にいる時に晴れ間が差し込んできたのには驚いた。 …結局、東京に再び雨が降ることはなかった。)


ホームに流れてきたステンレスの車両には、一両目からぎっしりと人が詰め込まれていた。

JRが軒並み運転を見合わせてしまい、振替輸送の乗客がこの路線に集中してしまったからだろう。

二両目、三両目ともステンレスでコーティングされた人の塊といった体だ。
僕の乗る車両が目の前に止まり、扉が開いた。
しかし誰一人として降りる気配もない。
それでも僕を含め何人かの、おそらく三、四人がその中に入り込もうとする。


二十年以上前に聞いた話しだが、ラッシュに慣れた(中央線の)人が語っていた乗りテクを思い出した。

『足場が20cm四方もあれば十分。』
『ポジションは、扉の端の方。』
それは、『閉まる扉の力を利用して、身体を車内に押し込む為』なのだという。

どう見ても乗り込める余地はなさそうだが、見下ろしてみると、足を置くだけのスペースがあった。
僕はそこにつま先を入れ、扉の上の方に手を掛け、扉が閉まるのを待った。

二人くらいが入るのを諦めていた。
扉が何度も閉まったり、開いたりしていた。
しかしなるほど、僕はくるりと電車の中に入り込むことに成功した。

閉まったら、そこからは地獄絵図のようだった。
呻き声、ため息、咳、体臭、これらがひといきれとなって車内上方のわずかな空気を汚染する。
衣服やバッグの擦れる音、潰れる音。
肉が歪み、骨が軋む音すら聞こえてきそうだった。
僕自身心臓がキュンとして、ふくらはぎピンとした感じがあった。

次の駅にも、そのまた次の駅にも整列して待つ人々がホームを埋めていた。
ターミナル駅でも並んでいた人の二割も乗れなかったのではなかろうか。

降り乗りのたびに苛立つ人の叫び声が飛ぶ。

ある駅で、
『あんた何やってんのよぉ!!さっきからさぁ!!』
と女性の声が車内に響く。

上着を着ていないサラリーマン風の男の挙動がちょっと前から、少しおかしかったように僕にも見えていた。
男は何もしていない、と反論していた。
その男の顔から垂れる汗が、若いビジネスマンの洒落たスーツの肩を染みらせていった。

またある駅では、中年男性が甲高い声で怒鳴り、
また次の駅では、
『赤ちゃんが降ります!』『赤ちゃんが降ります!』『ちょっと待って下さい!』とお母さんが声を張り上げる。

扉が開くたびに押されて降り、また押されて乗り、扉が閉まっていても、結局は身動きがとれないほど四方八方から押されていた。
押されながらバランスをとるのは体力がいる。
『おしくらまんじゅう』だ。

結局、僕の降りた駅でかなりの人が降りて、この台風による僕の通勤ラッシュは終焉を迎えた。

この日各所で交通機関の混乱が、通勤への支障をきたしていた。
電車内に閉じ込められた乗客が線路を歩いて次の駅へ向ったり、
振替輸送の乗客がホームに溢れて、運転を見合わせたり、とか。

まったく僕らの未来への線路は、果たしてどこへ向っているのだろうか、と言うとちょっと大袈裟かなぁ。


               (了)

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2009年10月14日 (水)

『 中秋の名月 』   −2−

夕方、いつものごとくビールとワイン、刺身やスパゲッティ、スモークたん、おいなりさんなどを仕込んで、海岸の堤に腰をかけ、サーフィンに興じる若者を眺める。


午後四時を過ぎて、やっと天気は落ち着いてきた。
外房の海の水は綺麗で、白波の立った時の際(きわ)の水の色が、エメラルドグリーンに近い淡いブルーだった。


毎度のことなのだが、刺身を肴にワインをこくり。(といただく)
どちらも地元の大型スーパーで仕込んだものだけどそれで充分。
これを海辺でやる。
景色も空も風も心地よい。


日が沈みはじめると、群青色に変わった海原に、仄かにミルキーなコーラルオレンジというか、サーモンピンクの夕陽が映し出されていた。
えも言えぬ自然の妙だ。

防波堤に腰をかけている背中の街灯がともりだした。

午後六時を過ぎると陽は大分落ち、乗る波を待つ黒い小さな人影がまだ二つ三つあった。

空は十五夜の明るさを雲が遮っているのだが、やはりそれほど暗くはない。
翌日の好天を予想させる如く、雲が駆け足で抜けていく。

愛犬と暗くなった砂浜に降りて少し走った。
水辺を歩かそうとすると、水嫌いの彼は脚を突っ張って踏ん張り、僕のいたずらにはのってこない。
僕に似てとてもビビりなのだ。


野良猫が寄ってきた。
食べ物目当てなのにうちの愛犬を威嚇する。
それでも、せっかくなので残っていたびんちょうマグロを二切れほどやった。
暫くしても『ミャーミャー』としつこくやってくるので、酔いも手伝って最後の一切れもあげてしまった。


僕は雲間から差し照らす月明かりが海に煌めいているのを、写真に納めようとする。
もちろんまんまるの『十五夜の月』を一緒にフレームに入れたい。
が、まだ残る雲が意地悪をして、なかなかシャッターチャンスを捕らえられない。
カメラを使いこなせず、以前にこのカメラで見ることのできた月面のアップも思うように撮ることができなかった。

目の前にあの45億年前の大きな月があったら、はたして今宵の『中秋の名月』はどのように目に映ったのだろうか。


               (了)0001
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2009年10月11日 (日)

『 中秋の名月 』   −1−

『45億年前は月まで、数万キロメートルしか離れていなかった。』

とJR山手線の車内で流れている液晶画面の情報で知った。

現在の距離はおよそ38.4万キロメートルだというから、『今よりも大きく見えていたかも…』なんて締めくくられていたので、はたしてどれくらいに見えていたのか、すごく興味を持った。

今でも、一年に約3cmずつ離れていっているそうだ。


『中秋の名月』『十五夜』。
ここのところ、天候が悪く今年は綺麗な月なんて見ることはできないと思っていた。


その日、僕は千葉県の外房にいた。
午頃はしとしとと、降ったりやんだりのくり返しで、折りたたみ傘が重宝した。

昼間、目的のお寺を観てまわって、駅へ戻るのに、その土地の『郷土資料館』に立ち寄った。
雨もぱらついていたし、トイレを借りたかったのもあって、珍しく入ることにした。

漁村らしく、漁で使う道具。
『万祝(まいわい)』という着物、漁師の晴れ着ともいえる色鮮やかな長い羽織は僕の眼をひいた。

近代の日常生活を知らす為に、家を模して作られた展示セットなどよくある造りだ。
その土地が輩出した詩人や政治家の遺品のコーナーは以外と楽しめた。

それともう一つ。
考古学のコーナー。
ここは主に土器の欠片やそれらをジグソーパズルのように合わせ、器の形にして並べてあった。
このコーナーの初めのところに、人類の歴史を蚊取り線香のような螺旋模様で表していたものがあった。
螺旋の中心が『人類誕生』で『猿人』『原人』。
ここにB.C.何年と書いてあったかは覚えていない。


ウェブでみてみると、『誕生』が約1億年〜6500万年前の『霊長類』の出現。
『猿人』(アウストラロピテクス≒「南の・サル」)が、700万〜400万年前に登場。
『原人』(ホモ・エレクトゥス≒「直立する(二本足歩行する)ヒト」)は180万〜150万年前で、脳が大きくなり歯が小さくなったのだそうだ。
さらに『旧人』(ホモ・サピエンス≒「知性あるヒト」)が、50万〜30万年前に現れ、
(ここには「ネアンデルタール人」(約20万年前の出現:2万8000年〜2万4000年前絶滅)が含まれる)
そして、現世人類と変わりない特徴を持った『新人』が、現世人類初期と言われる「クロマニヨン人」(4〜3万年前から)、日本でいう「縄文人」「弥生人」は、2万〜1万年前に、氷河時代末期に現れてきたんだそうだ)

(※こういうのは諸説あるでしょうから、深くつっこまないでくださいね。)


くるくると七周か八周も廻ったくらいで巻が一番外側になり、B.C.11000年から、円周の半分くらいを三期に分けてB.C.1000くらいに縄文時代が続く。
さらに弥生時代、古墳時代、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町と続き、
安土桃山、江戸、近代(明治、大正)、現代(昭和、平成)。
現代なんて蚊取り線香の火種程もない。
技術の進歩、文明の進化のスピードの速いことがよく分かる。

45億年前と言ったら、人類誕生のずぅーーーーーーーーっとずぅーーーーーーーーっと前で、
(後で調べたら地球と月の誕生の頃のことでした)
眼の前の月の大きさに煩わしさを感じる頃には両生類だって居やしなかったんじゃないか、と現実に戻された。


               (つづく)

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2009年10月 7日 (水)

『  先 輩  』

『あっ!マサトさん(仮称)が来た。』

と後輩が言った。
その言葉を聞き、僕は僕がまだ若く、或る先輩が来た時にしか感じなかった感情を思い出した。


品川という町は、江戸から外れた東海道五十三次の一番目の宿場町で、そこそこ古い下町風情を残したところである。

昭和四十年生まれの僕からすると、品川は高度成長期を過ごした京浜工業地帯と、鳶職、大工、ペンキ屋、左官屋、畳屋、蒲団屋…と言った職人の町といった印象だ。

長屋に暮らしていた僕にとっては、路地裏や銭湯などで、よその人とコミュニケーションをとるぐらいのことはしょっちゅうだし、
さらに、僕は十代からお祭りの会に所属していたので、十個や二十個くらい年上の大先輩らと一緒に旅行へ出かけたり、もちろんお祭りを楽しんだりなんてことは当り前の事だった。


物事の善し悪しを、「怒鳴られ」、「お目玉」をくらい、
「亀の甲より年の功」。さまざまな生活の知恵を、手ほどきしてくれる先輩達がいた。

その一方で僕らに、遊びの楽しさを教えてくれる先輩達もたくさんいた。

『遊び』といっても、子どもがする遊びと、大人的な遊びがあり、後者の遊びに少し悪っぽいスパイスを加えた遊びを教えてくれる先輩達もいた。

思春期を迎えた僕らには『男』を意識させる、たまらない刺激を与えてくれた。

酒、博打、喧嘩、女、……
僕みたいなビビりな男子でなくとも、皆、ワクワクドキドキしつつ、目を輝かせて話しを聞いていた。

が、僕らがそうした先輩方と話しをする時というのは、まずほとんどと言っても良いくらいに、アルコールが入っている。

アルコールが入ると、人は気が大きくなることが多い。
すると、もともと威勢の良い兄貴達のこと、僕らのドキドキは、話している内容についてではなく、僕らの置かれている状況へと移っていく。


今さっきまでニコニコと細めていた先輩の目が、突如として「どろん」とした鉛のような眼に、変化(へんげ)している。
なにやら不穏な空気が漂いはじめる。

『 …なぁいいか、…喧嘩ってのはなぁ… 』

などと、物騒なもの言いが続いていく。

『はいっ。』

僕らはその先輩の酒が無くなってはいないか気を配ったり、話しを聞いていないなんて思われないように時間が過ぎるのを待つ。


また或る先輩に関しては「同じ話し」のくり返しになったり、
またまた或る先輩は楽しい話しから、急に眼を三角にして「説教」へと移ってみたり、……

後輩である我々は、いつまでも先輩達の世界に拘束されることになる。

しかし、彼らのほとんどは、まず間違いなく愛すべき人達なのだ。

十代から二十代前半まで、僕らはそんな先輩の登場とともに『あっ、来たっ!』なんて心の中で呟くことがあった。
僕らのワクワクドキドキ感を喚起させる先輩。


僕らはいつの日からかそんな先輩達のように見られていたことを知る。
マサトだけでなく、僕も、他にもきっと後輩達からそう思われている仲間がいる。

そして、そう思っている後輩達の何人かも、そういう先輩になっていくのだろう。


               (了)

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2009年10月 1日 (木)

『 携帯電話 』

連休で家に遊びにきていた大学の先輩が、夕方になって帰っていった。

彼は朝からビールで迎え酒をして、昼過ぎには僕も昨日の残りのワインを少し舐めはじめた。
話しは、昨日の夕方から、寝ている間を除いて、丸一日続いた。
午後六時、テレビを点けて、ニュース番組を見て、暫くの沈黙が続いたところで、突然

『帰るわっ。』

と言って立ち上がり先輩は玄関を出た。
僕は最寄り駅まで、送っていった。

僕が家に戻ると、家人が家の前で待っていた。
彼が、ローテーブルの上に、携帯電話を忘れて置いていったのだ。

ついそこまで送るだけだったので、僕も携帯電話を持っていかなかった。
僕らは家を出て、私鉄の駅に向おうとしたのを、途中で、都営線の駅へ方向転換した。それが不味かった。

家人は私鉄の駅の方まで追いかけてくれたらしいが、僕らはそちらからぐるりと回って、都営線の駅に向った為、結果、追っ手(家人)をまいてしまったのだ。

家で、先輩が戻ってくるのを暫く待機したが、戻ってくる様子がない。
彼が僕の携帯電話や、家の固定電話の番号を覚えているわけがなかった。


前の日に僕からの電話が掛からなかった事で、彼は僕の番号を再確認したのだけどなぁ。


最寄り駅に到着したら貰えるはずだった、彼から電話は掛かってこなかった。
それは、彼が僕の携帯電話の番号を下二桁で入れ違いに登録していたからだ。

彼は二度三度、その間違った番号に掛けていたのだそうだ。

その話しにも続きがあり、翌朝、迎え酒をやっていると、僕が掛けていないのに、僕の目の前で僕の名前で彼の携帯電話に、電話が掛かってきたのだ。

もちろんである。
その僕の名前が登録してある番号は、前日に間違って掛け続けた番号の主のものだからだ。

最初、彼はその電話の着信音に
『怖いぃ』と言って、出ようとしなかった。

『それはないでしょう、向こうの方が怖がってるよ』
と諭し、三度目くらいで彼は出ることにした。
そして、前日に掛けたのが間違いだった旨を伝え、謝って電話を切った。

そんなやり取りがあったのだ。
しかし、お酒もしこたま飲んで、話しもいっぱいしているので、僕の携帯の番号なんて覚えている訳がなかった。

彼の固定電話にかけても、『現在使われておりません』だし、もちろん彼の携帯電話は目の前にあるし、

その後、僕は彼のPCのメールアドレスに、『どうしましょう?』と送った。
彼からは、PCから僕の携帯に連絡が入っていた。


結局、僕は仕事場に彼の携帯電話を持ち歩き、時間と場所を決めて待ち合わせる事にした。

午後五時前、秋葉原の電気屋さんの前で、彼の携帯電話を渡すと、彼に言われた。

『あの日、途中の駅で気付いて、引き返して、玄関のチャイムを何度か鳴らしたんだけどね』
『えっ!…』

僕は三階の部屋にいて、チャイムの鳴る音にまったく気付かなかったということだ。
(普段なら、愛犬が吠えてくれるんだけどなぁ)
まったくかたじけない。


携帯電話は、携帯しないと駄目ってことね。

               (了)

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2009年9月26日 (土)

『 離れる 』  ー 子供編 3 ー

夕食の時、おじさんは白いランニングシャツから出した腕で、大きな御飯茶碗を持って、箸でカリカリと米を啜った。

そしてその中身に驚いた。
白い御飯が白い牛乳の中にひたひたと浸かっていたのだ。
いわゆる『牛乳茶漬け』だ。(茶漬けは『お茶』だろうに)

『美味いんだぁ』
と北海道独特のイントネーションで言う。
眼鏡の奥の目を丸くして、おじさんはイタズラっぽく笑っていた。


おばさん家のごはんは家(うち)のごはんとはなにかが違っていた。
北海道の家だからという風土の問題でもなかったような気がする。
けっして不味いわけでも、端折っているわけでもなかった。
単に他人の家庭の味なのかもしれないけどね。

僕のうちは、東京は下町の二軒長屋の一軒で、夕方に遊びから帰ってくると、路地裏には煮物や焼き魚など、夕餉の匂いがそこここに漂っていた。

末っ子の僕は、お婆ちゃんや母のあたたかく甘い味に慣れ親しんでいたのだと思う。


八月十五日。夏休みの真ん中。終戦記念日。
この日は兄の誕生日だ。

おばさんのうちから、夜、東京の実家へ電話をかけた。
はて、それとも北海道にかかってきたのかもしれない。

僕は電話をとって代わってもらい、母の声を聞いた。
果たして、二週間か二十日ぶり程度のことだ。

僕の口は曲がり、喋ることができなかった。
僕の瞳からは涙が溢れはじめていた。
おばさんちの蛍光灯が青白く揺れていた。

たかだか、二、三週間ばかり東京を離れ、母親と離れただけだったのに、僕はその声を聞いただけで、余りにも遠い場所にいることに気付いたのだ。


そういえばこの日の朝だったか、牛舎で新たな命が誕生していた。
身体の毛は溶液を纏い、黒くキラキラと光っていた。
母牛から産み落とされてまもなく、細い脚を『ハ』の字にして子牛は立ち上がった。

彼等は本能として、敵から自分の身を守る為に生まれてすぐ立ち上がれるということだ。

それに比べて、10歳の頃の僕って奴はまったくだらしがない。

今年、44歳。
10歳の姪と8歳の甥には、はたして僕自身がどのように映っているのか。
僕のどんな言葉が、彼らの記憶の中に残っているのだろうか。
僕はどれほどしっかりと地に脚をつけて生活をしているのであろうか。

               (了)

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2009年9月23日 (水)

『 離れる 』  ー 子供編 2 ー

おばさんの旦那さんであるおじさんは、何ヘクタールもある牧場の草を刈って回っていた。

トラクターの上、真っ青な空をバックに、ベースボールキャップ、つなぎ姿のおじさんがやけに格好良かった。

朝のストーブとは違い、昼の陽射しはとても強かった。
それは、大地と空の広さから来るものだったのだろうか。

僕らは幾ヘクタールもある脚の長い牧草の中を黒い長靴で走り回った。
トラクターで刈り取って四角く束ねた牧草をトラックに積んでいったり。
時に牛の糞に脚を取られて転んでしまったり。

僕は牧草をトラックに積んでいく作業の時、激しい作業と強い陽射しによって、とても気分が悪くなってしまった。
吐きたいのに吐けないような、頭が痛いような重いような、
これを『日射病』というのだろうか、
お陽様の力でこんな風に調子が崩れたのは、後にも前にもこれっきりだ。


牛舎、100頭(40頭か)もの乳牛達が尻を揃えて『ムウォー、ムウォー』いっていた。
牛の糞の匂いはだんだんと、気にならなくなる。
臭いが変わるわけではない。
慣れるということだろう。

スコップやフォークの親玉みたいなものを担いでは、刺し。
刺しては、すくい、そして放る。
そのくり返しは小学校高学年とはいえ、なかなか堪える作業だった。

一緒に行っていた兄は何を思っていたのか。
僕らははたして何の話をしていたのだろうか。
兄とは仲が良かったから、しょっちゅうくっついてはいたはずなのだが。

黒い長靴で闊歩した記憶。
牛舎で休んでいた大きな牛に僕らは跨がったりもした。
胴もでかいが、首は付け根から太く、顔だって大きい。

後で、おばさんから
『アァラ、気をつけなさぁい。危ないのよぉ』
とのんびりした口調で、もちろん北海道のイントネーションで言われて、少しビビった。


アルミの10kgはあろうかという牛乳缶を両手で引きずるように持って歩いた。
牛の糞だか、濡れた牧草だったか、記憶には遠いが、『猫』と呼ばれる一輪台車に乗せてふらふらと押した。

兄に負けまいとやっていた。

それともう一つは、父の昔話に負けまいとしていたのだと思う。

北海道は『最果ての地』出身の父に、よく田舎の子自慢をされていた。

冬、凍てつくような吹雪きの日であっても、2キロも先の小学校まで歩いて行ったとか、
野良仕事を手伝っていたから、足腰の丈夫さは負けないとか、……

僕はスコップを振るっている時、自分が今、父と同じ境遇を体感していると、幼心に思って必死になっていた。


という記憶は本当だろうか。
どちらかというと、そういうことを意識しだしたのは、高校を卒業してからではなかったか。
小学生の頃に、果たして父とどれくらい話をしていたのか。
ほとんど記憶には残っていない。


               (つづく)

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