« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月

2008年12月27日 (土)

クリスマス  - プレゼント 子供編 - 後日談

知り合いの家族のところであった話しだが、やはり欲しいモノを『サンタさんにお願い』してあった小学一年生の男の子がいた。


クリスマスイブよりも幾日も前のある日
学校から帰ってきた少年は家でも力を持て余していた。
ドタバタと走り回って、あげく、壁だか、タンスだかに勢いあまって激突したらしい。

『ガタン!、ゴロン!』
12月24日の煙突ではなく、師走の単なる昼下がりだ。
部屋の上から落下してきたクリスマスの包み紙。

それとは知らず、少年の母は
『自分で片付けなさいっ!』
と一喝。

それを手に取った少年、

『えぇ!?えぇ!?』
と声を上げ、

『どうしてココにサンタさんにお願いした。オモチャがあんの!?』

とパニック状態に陥ったそうだ。

ラッピングが破けていたということか、それとも気になって、封を切ってしまったのか、定かではないが、
彼が黒目がちな瞳をキョロキョロさせて、口を尖らせている様子が目に浮かんだ。


その様子を見て慌てたお母さんは
『お婆ちゃんが、サンタさんが持ってくるのを忘れると行けないから、買って置いておいてくれたのよ』
と言って弁解したらしい。

少年はその言葉を真に受けて、落ち着きを取り戻し、
何日か早い、クリスマスプレゼントに興奮、感激していたらしい。


お母さんの方は、また別のプレゼントをサンタクロースにお願いに行ったのは言うまでもないけどね。

                    (了)

| | コメント (0)

2008年12月26日 (金)

クリスマス  - プレゼント 青春編 - 3 -

『ありがとうございました。』
『んっふ?』

S君が僕に近づいてきて言った。
なんのことか、暫くわからなかった。

『あぁ、いえぇ、おかげさまで、楽しく過ごさせてもらいました。クリスマスデートを、』
『あぁ、そうかぁ、それは、好かったぁ。俺も楽しかったよ。』

『ハニカニデート』のお礼らしかった。


『それと、・・・』
『んン!?』
『なんとなく、付き合うようなカンジになりました。・・・一応。』


『へぇ、そうなのぉ。これまた好かったねぇ。』

自然と笑みがこぼれてしまった。
そんなこともあるんだ、思った。
紹介した甲斐があるというものだ。

このクリスマスデートは僕のモノだった、そう思えるくらいに、とても楽しめた。

ひと事ながら『夢が叶った』
『クリスマスってイイもんだ』

と思えた瞬間だった。

僕は『白い手袋』を渡した次の日、お腹が痛くて痛くて、どうしようもなくなった。
近くの都立病院へ向かった。
眼を瞑り、腹を抱えながら、病院までの坂道をとぼとぼと歩いていった。


「あの『牡蠣のリゾット』にやられたか?」と思った。

僕の下腹をさすった髭面の先生が言った。

『亜盲腸ですね。』

要は『食べ過ぎ』ということらしい。

僕は腸内を散らす抗生物質を貰って帰った。


その日、僕にとってのサンタさんは『白衣』を纏ってお腹の痛みを和らげてくれたということか。

それともやっぱり、

『サンタクロースは、いないからな』

の言葉の呪縛からは逃れられないということなのだろうか。


                 (了)

| | コメント (0)

2008年12月25日 (木)

クリスマス  - プレゼント 青春編 - 2 -

僕の『夢』だったのだと思う。

誰かが、いつか、自分に最適のパートナーを連れてきてくれる。
なんて、

S君の、E子ちゃんの、それぞれの性格は、知っていた。
無責任にではないのだ。
それでも、人なんて、相性はわからないから、ある意味、リクリエーション的な想いだった。


デートの日、その日まで、
『非日常的な場所へ誘って下さい』とか
『自分では買わないけど、実用的な物』をプレゼントする(¥1000程度)
とかのテーマを与えてみた。

『途中経過を報告すること』とかも

『恋するハニカニ』と称して僕は仕事場から傍観していた。


イタ飯屋でのメニューは「なんとかのサラダ」と、「何か」と、「牡蠣のリゾット」のたった三品だった。
最初に二品でてきた時点で、大食いの僕ですら、これ以上はまず無理だろうと思うぐらいの、一皿一皿が二、三人前のボリュームだった。


たわいもない話しで二、三時間も過ぎたのだろうか。
僕はイタ飯屋のテーブルで例の『白い手袋』を渡したと思う。
有り体に喜んでいた。

その店を出て、僕は多少の下心を携えながら、彼女の言うままに
彼女の家の近くの、彼女の行きつけの小田急線沿線のと或る駅の居酒屋へ付いていった。

『カランコロン』

その店の扉を開けるとスナックでよく聞くようなカウベルのような音が鳴った。

僕が、えっ!?と思うより先に、その連れの(連れられた)彼女がその驚きの先へ向かった。

一人の女性が泣いていたのだった。
その人は彼女(Yちゃん)の仲のイイ友達だったようだ。

それにしても

『ごめんなさい。今日は、ありがとう。』
『うん』
『ちょっと、・・あるみたいだから・・・』
(わかってぇ)

という雰囲気だった。
『あぁ』
と言って、僕はビールのいっぱいも飲むことなく、その場を立ち去った。


次の日だったか、もう一日先の日だったか、
Y ちゃんから連絡が会った。

『ごめんなさい。友達がパニック状態だったから・・・』
『ありがとう。手袋。』


と、この話しはココで終わった。

なぜなら、
あとで、僕にそのYちゃんを紹介したK子さんが僕に楚々と近づいてきて教えてくれた。

『みのるちゃん、ごめん。』
『あぁ、いえぇ』

大したことではないと思っていたから、

『あの後、あの娘、あそこにいた常連客と付き合い始めちゃった。』
『・・・・・』


              (つづく)

| | コメント (0)

2008年12月24日 (水)

クリスマス  - プレゼント 青春編 - 1 -

『ねぇ、Yちゃんって娘が今彼氏が居ないんだけど、会ってみない?』

サークルの二年先輩で同い年のK子さんが何かの席で話してきた。

『クリスマスも近いし、・・・』

他人(ヒト)からこうして女子を紹介されるのは二回目だ。

それにしてもクリスマスの時期に女子と過ごすなんてした試しがない。
僕の大学時代は1980年後半、バブルの只中にあった。


『白い手袋が、欲しいとか言ってたみたい・・・』

話しの流れで、K子さんがそんなことを言っていた。

『ふーん。』(そんなものか)

と僕は思った。

次の日、クリスマスソングに踊る銀座に向かった。
もちろん、『白い手袋』を探すためにだ。


彼氏、彼女のいない子にそのパートナーを紹介するとは、どういうことか。

『おいっ、今年のクリスマス、予定あるのか?』
『えっ、!?・・・いやぁ、ないです。』

僕は後輩のS君に後輩のE子ちゃんを紹介した。
それは一つのリクリエーションとしてのつもりも半分あったんだけどね、(イベントというよりも)


結果、『銀座松屋』か、(僕は『三越』より、『高島屋』よりも)大井町の阪急デパートだったか。
見つけたのは、モヘヤだったか、霞のかかった、ソフトのかかったクリーミーな、ウールの手袋に小さなリボンをあしらったものだった。

まだ見ぬ、キャンパスの至福の為に、


さて、次なるはどこへ行こうかクリスマス。
覚えていない。おそらく夜に待ち合わせをしたのだと思う。

覚えているのは、下北沢のイタ飯屋『カプリチョーザ』で食事をした所からだ。

予備校時代に行きつけの紅茶屋で知り合った仲間が、大学入ってから
『富士山芸者倶楽部』
などといって、月に一度、「話題の美味しいものを食べに行こう」的なイベントグループを作っていた者がいた。
その仲間が行って評判が良かった店だった。
(バブル時代の話しさ)


                (つづく)

| | コメント (0)

2008年12月23日 (火)

クリスマス  - プレゼント 子供編 -(四夜連続)

『サンタクロースは、いないからな』

僕らの目の前には厚さ5センチはある『百科事典』が(上)(中)(下)と三冊、置かれていた。
長屋の二階、六畳の部屋の畳の上にだ。

これは僕ら兄弟が父から貰った最初で最後のクリスマスプレゼントと父の言葉だ。
(そのあと『パパが買ってきたんだ。』とつづいたよ)


僕が小学校へ上がったかどうかという頃のはなしだから、昭和47年(1972年)頃。

日本は高度成長を遂げ、第一次オイルショック前の景気の良い時代だったのだろうか。
しかし、今程クリスマス気分で街が踊るような時代ではなかった。


こたつの上で、鶏のもも肉を、脚先にアルミホイルを巻いて手づかみでむしゃぶりついたり、クリスマスケーキを兄と母とお婆さんの四人で囲んで食べたりはしたかな。

小学校高学年の頃だろうか、(正確には1971年頃に発売されたらしい)
『レディボーデン』アイスクリームは、衝撃的だった。

500mlは入ろうかという大きなあずき色のカップに、なんともいえない甘い味。
今までの日本のアイスクリームでは味わったことのないものだった。

我が家で、冬にもアイスクリームを食べるようになったのも、
クリスマスケーキのかわりに『レディボーデン』を食べたのがきっかけだったような気がする。

***************************************************

今日では、子供達が、そして彼女や彼氏が、クリスマスプレゼントの要求をして(要望を出して)、
クリスマスイブもしくは当日でなくても、クリスマスプレゼントの授与が約束としてある。

それを枕元にこっそり置いたりして、

『サンタさんはいるのよ』

と教えている親達も数多くいる。

『いい子にしていると、サンタさんがプレゼントを持ってやって』くると教えてるようだ。


冒頭の言葉を、僕ら兄弟が父親に言われたエピソードを小学生の子供達のいたところで、一人の友人に話そうとして、

『夢を壊すようなことを言わないでよ』

と叱られたことがある。

この情報化社会の中で、プレゼントがサンタクロースによって運ばれてきたなんてことを信じている子供はどれほどいるのか。(小学二年生くらいまでかな)


『夢』とはなんなのか?


『任天堂DSi』『どうぶつの森DS用/Wii用』『sony PSP』。『FF』のなんとか、『ゴーオンジャー』のそれ、とか、『ポケモンDP』『プリキュア』だぁ、『遊技王』だ、『デュエルマスターズ』だ、・・・


携帯ゲーム機を買い与えるのに、ある親御さんがこう言った。

『贅沢だとは思うけど、クラスのみんなが持ってて、うちの子だけが持ってないと可哀想だから、・・・』

まるでイジメの対象にならないようにそうしてあげると言っているようだ。

そんなに小学生の多くが一万円以上もするオモチャを持っているのか?
それを持っていないとクラスの話題に付いていけないのか?
そういうオモチャを持っていない子供からしたら、クリスマスなんて、『残酷物語』になっちまう。
サンタクロースがやってこない家だっていっぱいあるはずだ。


放課後、彼らは何をして遊んでいるのだろうか?
実際、ゲームを持っていない子はどれほど居て、何をして遊んでいるのか?

イジメられたりはしていないのだろうか?
(逆にいろいろ持っていてもイジメられる子もいるのではないか?)

サンタさんはそういった子を作らないようにプレゼントを持っていくんじゃなかったっけ?


親御さん達や子供達にとって、『クリスマス』とは『サンタクロース』とは、何なのか、どんな役割を持っているのだろうか?

『家族の団らん』『幸せ』の象徴として過ごす一日。


僕もモノに関しては結構、満たされていたと思うけれど。
モノによる「豊かさ」、「喜び」という点では変りはないか?

僕には子供が居ないので正直、自分がどういう親になるのか、わからない。
それでも今の子供、現代の親に対してどうしても違和感を感じてしまう。


ただ単に、『大好きなこどもの喜ぶ顔が見たいから』プレゼントをあげるということに、
あたかもサンタクロースがいるかのような、演出はいい加減、なしにしてもいいような気がするなぁ。
だって、あれが欲しいとかこれがイイ、なんてモノを宅配するのがサンタさんでは、悲しすぎるよ。


これって『サンタクロースは、いないからな』などと宣告されたこどもの、ひねくれた考え方なのかな。

                   (了)

| | コメント (2)

2008年12月 6日 (土)

『幻の滝』  3/3

老人に貰った白い印刷物がある。

手渡される時に
『うちの息子が六年生の時に賞をもらった作文なんです』
と言われた。

『「新名所 『幻の滝』〈特報〉」
1000年の悠久の時を超えて 幻の滝、今蘇る!!』

B4の右半面には、『生命(いのち)の滝』『二の滝』『三の滝』の三つの滝の手描きの絵と、
『幻の滝』の説明が書かれている。
発見はこの印刷物の発行された七年前の1986年とのことだ。

また、左半面には彼のご子息が、小学校六年生の時に書いて、「関東郵政局長賞」をもらった作文がやはり手書きのまま印刷されている。
その作文が書かれた小学校六年生の頃からすると、その彼は現在、34歳か、


「『滝にみせられた父』
ぼくの父は今、「まぼろしの滝」を世に広めることに夢をかけています。」

で始まる文章だ。(引用、抜粋してみます)

「何かに見せられたように立ちつくし・・」
「もうれつに活動を始めました」
「東京でやっていた商売をすべて投げ売り、その資金で・・・すべて手作りです」
「手には大きなまめやひっかき傷が絶えませんでした。」
「ぼくは、五十に近い父のどこからそんなエネルギーが・・・」
「・・滝のよさを知ってもらえませんでした。」
「・・一か月に十人ぐらい来れば・・」
「でも父はあきらめませんでした。」
「そのうちに生活も苦しくなり、ぼくは買ってもらいたい本もがまん・・・」

小学六年生の文章だ

「そんな時父は滝に話しかけているように・・」
「後ろ姿を見ていると何も言えなくなり、・・」
「そんなある時、一人の人が来ました。」
「その人は滝にうたれながら祈ってくれました。」

僕は店の中にあった写真の「織田無道」氏かと想像した。

「『きっと有名になりますよ』と・・」
「『本当かな。』と・・・矢先にテレビ十二チャンネルで・・」
「父のうれしそうな顔は忘れません。」
「それからです。お客様が次から次へと来てくれ・・」
「・・父の顔を見るたびに『お父さんやったね、すごいね。」と心の中で話しかけます。
ぼくも、滝を見ることが多くなりました。父の説明するさわやかな声を耳にしながら。」

と結んである。

三十代のの男性がジャージ姿で小屋の食堂をうろうろしていたのは彼なのか?
作業服の老人達家族は細々とこの小屋を営んでいるのか、

『小沢又の滝』をまさに我がものにしてだ。
まぁ、日光『華厳の滝』を管理している(エレベーターを運行している)会社があるのと同じことか?

スキー場を運営しているのと同じか?

しかし、一人百円の木戸銭で営業しているとしても、この日のような足許が悪い時に事故が起きても、保証はされるのか?
自分の家の庭であって、百円はカンパだから関係ないのだろうか?


やはり解せないなぁ。

結局、この滝で時間を使い『粟又の滝』つまりは『養老の滝』への訪問は『幻』となってしまった。


                 (了)

1_3

| | コメント (0)

2008年12月 3日 (水)

『幻の滝』  2/3

Photo

『滝めぐり遊歩道』のとば口にあるのが『小沢又の滝』だ。

遊歩道に入ると『幻の滝』の標識?看板?がいくつもあり、その中に民芸品屋のような入り口がある。
左手に14-15インチのブラウン管テレビデオが


『ワァー、これが『幻の滝』?』
『うん、『幻の滝』』
というフレーズを黄色い声でがなり立てているのが繰り返し流れている。

五、六人の人が出たり入ったり、うろうろしたりしている。
皆、「ココ」が「そう」なのか、判らないでいる意識のあらわれだ。

すると、
『はい、どうぞ、はい、どうぞ。』
と作業服姿の小柄な老人があちらこちらで、百円玉を回収している。

『『幻の滝』です。『幻の滝』はこちらからお入りください。』
『百円になります。』
とちょろちょろ動き回っている。

やせ形、頭のてっぺんに毛は無かったと思う。
軽くて、少し低い声はしゃがれている。

『さぁ、奥のそちらの方へどうぞ。そちらで待ってて下さい。』
『そして私が、どうして百円を頂戴しているかを説明いたしますので、』
と言っているうちに、又、後ろから入ってきた人の百円を回収しに、入り口の方へ行ってしまう。


五人ほどが、その場所に集められたところで、作業服の老人が話し出す。

『はいっ、百円を戴きましたので、その説明とこの滝のことを話させていただきます。』

律儀に、そしてやや早口に説明を始める。

『こちらの滝は二十数年前に、私が山菜採りに参りましたところ、奥の方から滝の音がしまして、・・・』
『これは!と大変気に入ってしまいまして、』
『この土地を買って、この素晴しい滝を皆さんにも、見ていただきたいと思いまして、』

『買って』?って、どういうこと?

『自ら、階段と手すりを、作りまして、』
『その整備費として皆さんから、百円を頂戴してる訳でございます。』
『下へ降りますと、一番の突端へ行きますと、今は二本しか見えません滝が、あと三本現れてまいります。』
『これが『幻の滝』というのでございます。』


食堂もある小屋を潜るように抜けると、眼下、およそ30mのところに滝壺がある。
直径6cmの鉄パイプ、いわゆる「タン管」と「クランプ」で手すりは組み上げられていた。

土の階段は木材で縁取られていていた。
が、足許はぬかる(「泥濘る」と書くらしい)んでいた。
しかもツルツルの粘土質だった。

何歩か行ったところで早々に、僕のワインカラーのチャッカーブーツは掬われた。
僕は肝を冷やし、右肩に荷物と、左肩に愛犬の入ったキャリーバッグを両方とも襷(たすき)に掛け直して、
『ランボー怒りの脱出』?の状態で手すりを握りしめ、歩みを進める。

なんとか転ばずに下まで降りることが出来た。

ほったて小屋や階段とは違い、一番大きな滝も、細くて高い二本目の滝も、立派だし風情があった。
虹も架かっていたしね。


それにしても、

この滝が、この景色が、彼のものなのだ。

彼のものなのか?
所有物、庭、借景。

解せない。

                (つづく)

| | コメント (0)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »