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2009年2月

2009年2月28日 (土)

『 千社札 』 ー 江戸のデザイン ー

ららぽーと豊洲内にある平木浮世絵美術館で催されている『江戸のデザイン・千社札 其角堂コレクション』(http://www.ukiyoe-tokyo.or.jp/2009exhibition/200901senshafuda.html)へ行ってきた。(なんと2月28日(土)まで)


僕のお祭りの会の先輩であり、江戸趣味の師匠(?)(しかも一方的に)から、
『こんなのやってるよ』とビラを貰っていた。

『千社札』というのは『千』の『社』の『札』の字の如く、
たくさんの神社仏閣に納める札とでもいいましょうか。

始まりは『題名納札』といって自分の住む場所や名前をしるし、それを自分が信仰で、参拝したお寺や神社の山門や水場、お堂などに木札を打ちつけて、自分がお参りした証、または自分の代わりにいつもお参りしてもらう意味合いのものだった。

最初は手書き、後に木版が広まり、大量生産が可能になって、江戸時代に大流行したらしい。
手漉きの和紙に墨一色の木版で刷る『題名納札』は信仰の為の貼り札だ。
しかし、江戸時代の信仰には遊興、娯楽との関係が深い。
後に、仲間達が名刺代わりに配る『交換札』は多色刷りで、趣向や贅を尽くしたものとなる。
絵師、彫師、摺師と分かれているのだが、それを製作依頼するのが各個人なのだ。

江戸っ子気質の『粋』、『通』、『洒落』といったものを意匠に纏めていく。
小さな浮世絵と言っても過言ではないと思う。

そんな『千社札』を集めた展覧会に行ってきた。

モノの本でしか見たことが無いような古い札も展示がしてあった。
最近の交換札はもちろん肉眼で見ることはあるが、
昔のものは本でしか見たことが無かったので、現物を見てみると、古いものでもことのほか、色が鮮明でビックリした。
赤色は赤で、朱ではなかった。

残念ながら写真を撮ることは許されておらず、一通り見終えたあと再度、気になる文字、絵柄については持参の手帳に書き写した。
ヒントになればいいのだ。

『ヒント』?
そう、自分の札や落款、紋などを創作する時の参考にね。
『江戸のデザイン』と称されているように、とても凝ったものがある。
たとえば、
『中』という字を目のように二つの弧で描き、それを四つ、外側の弧で円を描くようにして並べ、
その真ん中の空間にはまるで単なる鍵模様のように『萬』の文字をあしらって、幾重にも並ぶ模様。
(といっても分からないかな、…撮影不可。)
(周りの円のところは『七宝つなぎ』という模様:和柄を模している)


擬似柱には何枚かの札が貼ってあった。
先輩のご友人で僕もお世話になっている方の名前もあった。この方のは、関東近郊のお寺や神社では、ホントによく見る。

旅籠屋で先達が泊まっている部屋を知らせる『まねぎ』という綿布、寺社の水場に手ふきとしても飾られるそれに、同級生の名前のものが吊るしてあった。
やはり、類は友を呼ぶか。

点数はそれほど無かったが、ついゆっくりと見てしまう。
何度も行ったり来たりした。
なんとも心地良く、時間を忘れてしまう。

後日、先輩にお礼の電話を入れて、僕はまた新たなデザイン創作に励むのであった。
この時間がまた、楽しいのである。


                (了)

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2009年2月26日 (木)

『 メイシャ 』  2/2

昔、学校の保健室に貼ってあった『保険ニュース』的なポスターに『トラコーマ』の病状の実物写真があった。
患っていた方には申し訳ないが、その当時は正直、目を背けていたと思う。

その日は、目薬(点眼液)を二種類処方してもらって帰った。


二回目の診察。
土曜の朝九時だというのに、待合室はまたしても満席。
八時過ぎに診察券を持ってきておいたので、五番目くらいには呼ばれた。

奥の診察室で先生に
『ほぼ良くなったので、あとは目薬を…』いついつまで注して、にとどまった。

『最後に眼圧を測って、』
と言った先生にお礼を言って、初日の初めに目についた白い機械の前に座った。

顎とおでこを当て、機械の中を見る。
『大きく見開いて下さい。』との指示に従う。

次の瞬間、『フッ!…、フッ!…』と眼球に空気が当てられる。
右、そして左眼。
『フッ!…、フッ!…』
看護士さんが『あれっ?』という顔で、
『もう一度、大きく見開いてぇ、』
と言って、『フッ!…、フッ!…』
瞬きをしてしまったか、と僕自身は気を取り直したが、
『もう一度ぉ、』と少し焦っているよう。
機械の調子が悪いのかと想像した。

『フッ!…、フッ!…』

看護士さんは腰を上げ、小走りに奥の診察室の先生のところに駆け寄った。
『先生…、21…、22…』
とぎれとぎれに聴こえる看護士さんの声。

すると先生が僕のところまできた。
『正常な眼圧というのは、数値では『20』以下なんですけど、ちょっとそれを越えていたので、
もし来れるのなら、ひと月後くらいにもう一度来て…』

礼を言って診察室を出た。
診察の会計を待っていると、『緑内障』の文字が眼に飛び込む。
『40歳を超えたら注意!』のパンフレット。

それまで、一度も眼に入らなかったものが見えてくる。
三十数年ぶりの『メイシャ』は少し印象の違う、油断のならないものになっていた。


               (了)

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2009年2月25日 (水)

『 メイシャ 』  1/2

何十年かぶりで『メイシャ』へ行った。
『メイシャ』とは眼科医院のことで、眼医者さんのことを呼び捨てにしている訳ではない。(『ハイシャ』もそう)

近所で評判の、とは聞いていたが、まぁ混んでいた。
畳10枚くらいのところに長イスが四列、教会のように並んでいて満席の待合。

『あー、花粉症か。』と察する。

雑誌があるだろうと期待して、本を持っていかなくて後悔した。
待っている人が次から次へと診察室に呼ばれていったが、僕が呼ばれるまで40分程待った。

明るく広い診察室には一人が検眼、一人が白い機械(後に解ることになるが、『眼圧』を測る機械だった)に顔を当てて、丸イスに腰掛けている。

中にも待つ為の長イスがあり、僕より先にもう一人が座っていた。
で、右奥のカーテンを開け閉めして出入りする女性を含め、三、四人の看護士さんが行ったり来たり、傍観したりしている。

「目やにが出る」「ごろつき感がある」「白眼が赤くなる」
症状で、二週間もほっておいて、なんてことなかったので、診療前の緊張のようなものは無い。


おそらく三十数年以上前に『メイシャ』へ行った時も「眼が赤く」なったかだったと思う。
古い洋館の佇まいだった。
床は濃い茶色の板敷きで壁はやさしいアイボリー色の漆喰だったか。
上品な60年輩の女医さんだった。
診察室全体がセピア色に覆われている昭和の『メイシャ』。

優しい声に促されて、開かれた眼で瞳を上へ、下へ、
薄い金色のアルマイトの水受けを眼の下に当てる。
ガラスの細い注ぎ口の薬さしから、ホウ酸水が流され、眼の玉が洗われる。
アルマイトにカラカラと水の落ちる音、…

それでお終いだ。
『メイシャ』とはそういうところだ。


僕はカーテンの奥に誘われ、その暗がりには、60年輩の男の先生がいた。
先生は僕の瞼を摘みながら確認する。

『上を見て、今度は下。』
『黒眼は綺麗だね。』
なんて、色っぽいことを言われる。

『結膜炎』ということだった。

眼の病気のことなどほとんど知らなかった。
せいぜいバイ菌が入った程度と甘くみている節があった。


            (つづく)

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2009年2月22日 (日)

『 発表会 』  -2/2-

姪っ子の演奏が終わるとしばらくは他のお子さん達の演奏を楽しむ。
サービス業に携わっているので、土曜の昼にこんな優雅な時間を過ごすことは、とても貴重だ。

クラシックはもちろんのこと、やはり『スタジオ ジブリ』モノも多い。
『耳をすませば』『ポニョ』『魔女宅』『千ちひ』『トトロ』『ハウル』『ラピュタ』…。

映画音楽、CMソング、テーマソング系では、

『スティング』のこの曲は『エンターティナー』って言うんだ、と知った。
『大脱走』なんかは嬉しいなぁ。
『サウンド オブ ミュージック』からは三曲も、そのうちの『私のお気に入り』という曲が
『JR』の『京都へ行こう』的なCMに使われているなんてのも初めて知った。
『おもちゃの兵隊の行進』(『3分クッキング』)
『アメリカン パトロール』(『のだめカンタービレ』によくかかっていたって、)
ショパンの『ノクターン OP9-2』(って、プログラムに書いてあった。)は『太田胃散』

クラシックは『子犬』やら『子像』やら『白鳥』やらが『ワルツ』だったり『マーチ(行進)』だったり、
そう言えば、街を歩いているとたまにどこかの家からもれてくるピアノの調べで聴き覚えのあるものも結構あったなぁ。

親子で『JAZZY』な曲の演奏なんてのもあってなかなか好かった。


華やかにドレスで着飾ったり、シックな装いでキメた女の子達。
少年がホワイトカラーに、ネクタイに、スーツやニッカボッカにと身を包み、漆黒のグランドピアノに向かい鍵盤を叩く。


ピアノからの心地よい旋律と時たま響くミスタッチがなんとも愛らしい。
中にはとても上手な子もいて、僕の脳はすっかりα波で覆われ居眠りを余儀なくされてしまったり。

後半にゆくに従って、身長も年齢も技術もアップして、ミスタッチもたどたどしさも大分消えている。

子供達は、演奏前にステージの中央で、両手でお腹を押さえて挨拶をしてから演奏に入る。
演奏中の表情が照れていた様子から自信へ変わったり、終えるとまた、背筋が急に丸まったりというのも、なんだか子供らしく微笑ましい。


姪っ子の『ソロ』の演奏は『ブルグ ミュラー』の『スティリアのおどり』。
しかし、僕はカメラとビデオの両刀で撮影をせねばならなくなり、全く耳に入っていないので、
どんな曲かは未だに分かっていないんだけどね。

映像を切り取ることと、カメラの機能操作、二台の機具の取り扱いは普段カメラになれ親しんでいないとなかなか難しいものだ。
しかも、またしても、あっという間に終わってしまい、納得いくものを撮ることはできなかった。

二兎追うものは一兎も獲ず、である。

それでも、先生方の連弾(演奏)とゲストのオペラ歌手の独唱もあり、とても充実した一日だった。

およそ四時間という長い時間で、少々尻は痛くはなったし、腹も空いたけれど、
久しぶりに音楽に触れることができた。
今度は自分が演者の側にまわって、あのライトに照らされたい、なんて思ってしまった。

                     (了)

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2009年2月21日 (土)

『 発表会 』  -1/2-

姪っ子のピアノの発表会へ行ってきた。

男兄弟に生まれ育ったので、こういう経験は初めてだ。


駅から会場へ向かう途中の美容院で待ち合わせをした。
着いたらちょうど,出てきたところだった。

シャンパンゴールドのレースに覆われた、淡いクリーム色のドレスで130cmのお姫様が現れた。
なかなか可愛い。
足許は移動用の黒のロングブーツだから浮いちゃってたけどね。

髪は左右二列ずつ、細い編み込みをして、アイボリーのバラが二輪、後ろの方に添えてあった。

受け答えの感じから、緊張している様子はまるで見当たらない。
今時の子ってことなのかな。


会場で何枚か記念写真をパチリ。
僕は毎度のカメラ班である。
およそ定員200名の会場だ。


演奏順番がなんとトップバッターである。
最初は、仲のイイお友達との連弾だ。(一台のピアノを二人並んで弾くことをそう言うんだそうだ)

モーツァルト『アイネ クライネ ナハトムジーク』である。
初めて一年半くらいでよくもここまで弾けるようになるものだ、と感心した。

『ティロリン、ティロリン』右手と左手が別々に鍵盤を叩いて、ピアノ線が震え、波動がホールの天井や壁をつたって僕らを包む。

『もしもピアノが弾けたなら』なんて歌謡曲があるが、ホントに楽器ができるって素敵だと思う。
僕の父親の言葉を借りれば『尊敬』してしまう。


僕は僕でまた別の難問に取りかかっている。

取った席の位置の都合で『お友達の顔』が写らない。
『鍵盤を叩く手、指』が見えない。
『露出の関係で胴体ブレ』や
『暗い画面』になってしまう。
(コンパクトデジカメをいまだ使いこなせていない)


結局、何枚も撮ることができずに一曲目は終わってしまった。

なにしろ、50人で一人二曲、計百曲が演奏される訳だから、駆足駆足である。
一曲、二、三分くらいだろうか。


                 (つづく)

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2009年2月18日 (水)

小田原城 ー 吾妻山公園

小田原へは、年に一、二度くらいは行く。

小田原城はここのところ、天守閣周辺の門の復興工事をしていて、
去年はまだ工事中で虎柄(黄色と黒)のロープが張られていたり、ユンボが赤土を掘り返していたり、

それが今回はもう奇麗に建てられていた。(『銅門』)
ああ、ここを騎馬や歩兵の軍勢が大挙して通り過ぎたのか、などと想像する。
青く澄んだ空に、真っ白な漆喰塀が映えてとても鮮やかだった。

さらに、堀の近くにまた別の門を復興中だったので、(『馬出門』)
また次回の訪問も楽しみだ。
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城の周りを歩いていたら,セピア色の写真があちこちに飾られていた。
明治時代、天守閣跡に旧城主を祀った「大久保神社」があったという写真。
その後、昭和三十年にはその場所に(?)観覧車。(神社は何処へ)
そして昭和三十四年、現在の天守閣再興建築時、丸太足場の組上げた壮大な写真、と興味深いものだった。


今回の主たる目的は、菜の花と360度の展望を誇る二宮、吾妻山公園。
JR東海道線二宮駅北口よりすぐの小さな山で、はじめに待ち構えていたのは、かなり急な勾配の階段だった。
年金生活のお友達グループといった60代、70代の元気なおば樣方も息を切らしながら上がっている。
と言いつつ僕も少しへばってしまった。
15分も登っただろうか。
緩やかな曲線を描く枯れ芝の上に展望台が円くあった。

残念ながら富士山には雲がかかり、麓しか望めなかったけれど、
南に見下ろす相模湾の水面のきらめきは浮世絵を思わす景色だった。

缶ビールと黒糖いなり(寿司)で軽く腹をたし、菜の花の芳香と早春の陽射しを小一時間程浴びた。
着た道とは別の階段を下り、吾妻神社をお参りし、さらに南へ降りる。
道路に出る手前にも鳥居と小さな祠が、『神明宮』とあった。

その前の道の向うにはJR東海道線が横切る。
そこを渡る陸橋を越えるとき、列車がその下を通過するのを待った。
風を切って走り来るステンレスの塊。
僕はスティーブン・セガールよろしく、列車の屋根にひらりと舞い降りた。
『暴走特急』だ。
そんなことを想像しながら、行き去る列車を見送るとさらに南へ。

細い道の先にまたしても鳥居が、…
僕は合点した。
『ああ、先の『神明宮』『吾妻神社』を結ぶ参道なんだ。』と、
そこにいつのまにか、列車が横切るようになってしまったわけだ。
鳥居の目の前は国道一号線で、五十三次の東海道。今度は江戸時代にタイムスリップ。

その後、住宅街の細い道を抜け、相模湾を望む海岸に出る。
途中ところどころに梅の花を見かけると、やはりここいらは小田原に近い梅の名所であることに気付く。

早春の格安散歩旅を楽しんだ一日だった。


                (了)

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2009年2月16日 (月)

『 誕生日 』

2月16日と言うと『北の将軍様』でも『高倉健さん』でもなく、
『僕の父』の誕生日であることがまず思いつく。

『誕生日おめでとう。』
少し恥ずかしいような、嬉しさがなんとも言えず好きだ。
自分が言われた時のことだけどネ。


何が『おめで』たいかって、それは正月と一緒で、また一年、新たな年を迎えられたという、
『生きている』ことへの賞賛だ。


歳をとるとよく、
『もう祝ってもらって喜べる歳でもあるまいし…』
と言う人がいるがそれは間違いだ。

『歳をとること』がマイナスイメージだから、そう言わしているのだろうが、
子供の頃、ケーキにろうそくを立てていた喜び方への照れがあるのかもしれないが、
『生きていること』『生かされていること』を素直に喜ぶべきだと思う。

父の母であるお婆ちゃんは、晩年リウマチで身体が動かせないでいた。
それだけでなく痛みも伴っていたので、普通に生活すること自体がかなり辛かったはずの人だ。

しかし頭脳については80歳を過ぎてなお、明晰であった。

そのお婆ちゃんが言った。

『人間はどんなに辛くても、生き続けていかなくてはならないのよ』
『生きることが、大事なのよ』と、

これはおそらく、僕がいつもベッドで寝ていたお婆ちゃんに、
その頃僕が文学に興味を持つきっかけとなった本、夏目漱石の『心』を読んでもらったからだと思う。

多感な時代の僕に、その小説の影響で命を投げ出すようなことがあっては『駄目』よ、という意味合いだったのだろう。


そのお婆ちゃんから、74年前の2月16日、僕の父が生まれてきた。

まずは『誕生日おめでとう』


              (了)

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2009年2月15日 (日)

『 春一番 』

昨日から未明に掛けて『春一番』が僕の街を通り抜けた。

今朝はなにをするにも『楽』だった。
着替えるのも、シャワーを浴びるのも、言ったり来たりすることも、…

寒くないだけでこうまで違うかと思うくらいだ。
(ハンカチは黄緑色とオレンジ色の明るいものにした。)


身仕度を終え、玄関を開けた。
表へ飛び出すとそこには期待通り、春の陽気が溢れていた。
南風もまだ若干、ぬらりと吹いていた。


春を迎えると、毎年のことなのに気分が高揚する。

長袖の肌着もズボンの下に履くタイツも脱ぎ捨てて、サラッとした皮膚感で街を歩く。

風は生暖かくも感じられ、汗が出るくらい。


春は土からも、枝からも家からも服からも、いろんなものが飛び出してくる。
(芽や人や、肌や汗なども)


街を歩いていると、これはスギ花粉か?と思えるような刺激が鼻を突く。
臭いが「黄色い」、そんなような気がする。
僕は花粉症ではないから、実際のところは分からない。


週末、行楽に出ている人々の衣装が軽やかになっている。
色や、ボリュームがだ。
僕自身も、グレーのフランネルコートをアイボリーのステンカラーコートに替え、腕に掛けて出かけてきた。


仕事場で、『春一番』に浮かれていた僕は、こんなことを言われた。

『この時期(2月14日)に『春一番』はまだ早いんじゃないの。雪が降ってもイイ頃なんだから、…』

と、

うーん、そうか、これも地球温暖化の影響を受けているということか、…(僕は単純だ)


そう思ったら、頬を、首筋を撫でる風がやけに気味悪く思えてきた。

終末に吹いている風って、こんなものなのかもしれないと、

                (了)


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2009年2月14日 (土)

『天使』と『チョコレート』

2月14日。

今日は巷で言われる『バレンタインデイ』
『チョコレート』の話し、と言いたいところだが、
二年前に『天使』が旅立ったことを知った日だ。


僕が二十代後半にお世話になった鳶の頭がいる。

仮に『T』さんとする。
『T』さんの誕生日が2月14日だ。

『T』さんは、昭和二十三年の早生まれで、いわゆる『団塊の世代』の中心の生まれの人だ。
『T』さんは若い頃から無鉄砲で、若い頃の彼を題材とした小説を書いた人がいるくらいだ。

僕が彼に知り合ったのは、そう言う意味では、もうかなりまぁるくなってからということになる。
彼には、若い奥さん、『H』ちゃんと三人の子供がいた。
後輩でもある『H』ちゃんは16だか17歳かで、身籠り、結婚をしていた。
子供達は皆、素直で明るい性格の持ち主だった。


その中で、一番下の『チィ』ちゃんはまさに『天使』のようだった。
(『天使』っていう言葉は、『Hちゃん』が言っていた言葉だけどね。)

『チィ』ちゃんは、『T』さん、『H』ちゃんも含め、我々、大人達がなにを悩んでも、なにを叫んでも、すべてを受け止めていた。

大人が喧嘩をしていれば、『うーん、分かるけど、やだな』って顔をしていたし、
みんなが楽しそうにお酒を飲んでいれば、『ふふっ、ふふっ』って、一緒になって笑っていた。

時には、『もうイイから、寝かしてよ』なんて顔をしていたときもあったけどね。

『チィ』ちゃんは言葉こそ、発しなかったけど、すべてを分かって、すべてを語っていた。

『チィ』ちゃんは16年で生涯を全うしてしまったけれど、
残された、『チィ』ちゃんを知るすべての人たちが、
どんなに、こんなにもキツい世の中になっていたとしても、
いつも、その『天使』に、
『天使』に見守られている、と感じながら生きていけば、きっと、
自分を投げることもなく、少しでも前へ進んで行こうと思えるのではないか、…


『チィ』ちゃんが羽ばたいて行ったことを知ったその夜、
僕は『T』さんと、ザーザー降りの雨の日の居酒屋で、
『T』さんの誕生日だか、『バレンタイン』だかのチョコレートを御馳走になりながら、
焼酎のお茶割りを酌み重ねた。


                     (了)


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2009年2月13日 (金)

『たけのこ』

僕は筍が好きだ。

あのシャキシャキした歯触り、歯ごたえの食感が好きだ。
ほのかな風味も好きかもしれないし、煮た後の味もやっぱり好きだ。
味が染みている。

近頃では、新鮮なヤツをただスライスするだけの『刺身』なんてのもあるらしいが、それは知らない。
筑前煮や竹の子ご飯やメンマがほとんどだ。


小学生の頃、『たけのこ狩り』へ行って、泥だらけになって帰ってきた。
その足で、大きなスーパーに立ち寄り、値段を調べたりした。

化粧品売り場の奇麗なお姉さんが、僕ら仲間とその山ほどもあった『たけのこ』を珍しがってか、話しかけてきた。
僕らは喜んでいくつかの『たけのこ』を分けてあげてきた。
もちろんお姉さん達も喜んでくれた、薄いパープルカラーの想い出である。


学生の頃、八〇歳を過ぎたお婆ちゃんが、はるばる北海道からやってくることになった。
迎えに行った父母の留守、僕は歓迎の宴を用意しようと頭をひねり、スーパーへ向かった。
僕は『皮付きのたけのこ』と『タコ』と『キュウリ』を買った。

米のとぎ汁でたけのこを湯がいて灰汁を除いたり、かつ(お)節で『一番だし』をとったりして、
『たけのこ御飯』と『タコとキュウリの酢の物』を食卓に並べた。
我ながらかなり上出来であった。

お婆ちゃんは、満面の笑みを浮かべ、眼を細めてくれた。

『みのるちゃん(本当は実名)ありがとうネ』
と礼を言われた後、

『でも、お婆ちゃん、御飯だけいただくネ』
と言われた。

『えっ?』と僕がいぶかしがる前に、お婆ちゃんは、ほとんど歯の無い口をまあるく開けて、

『ホッ、ホッ、ホッ、ホッ』と笑い出した。

口の回りの皺と、ニコニコして一段と細くなった瞳がとても印象的だった。

『たけのこ御飯』と言えば必ず想い出すはなしだ。


                     (了)

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2009年2月12日 (木)

『 節 分 』

『オニハーソト、フクハーウチ!』『パラパラ』『パラパラ』
『ワー、オニィ、オトーサン、オニィ!ヤッー!』
『イタイ、イタイ』『イタイヨー、ホントニー』

こんな様子は、昨今の一般家庭では、どれくらい行われているのだろうか。

僕が小さい頃から、豆を撒く役は僕だった。
撒き終えてから、こたつの上でお婆ちゃんや母の歳の分の豆を数えて、最後に自分の分を数えて、皆で食べた。

中二でマンションに引越してからも、鉄の扉の玄関を開け、ベランダから外へ邪気が抜けるように窓ガラスを開けて、豆を放る。

長屋に住んでいた頃は、外に撒いた豆は、近所の猫やカラスが啄んでいったろうが、
マンションではそうはいかないので翌日、自分で掃いたっけなぁ。


30歳を過ぎて、結婚をして、ボロアパートで何年かはそこでも、

『鬼はー、外ー!。』とそこそこ大きな声でやっていた。
相変わらず子供は僕だけ(?)の、妻との二人暮らしなので、豆を撒くのは僕の役だ。

しかし、我が家には小さな愛犬がいるので、鬼打豆は麻雀牌をつもる程度で、
撒いたそばから拾ってまわるという慌ただしいものになってしまったけどネ。


今年は随分と『恵方巻』がマスコミで取沙汰されていた。
もともと関西発の、近年の風習がじわじわとやっと関東まで伝わってきた訳だ。

関西では、『恵方』(その年の吉報)に向いて、願い事をしながら、太巻きを無言で一気食いするらしいのだが、
関東ではその太巻きも何切れかに、分けてお上品に食べる人が多いという。
ところ変わればだ。


今年の節分は、出先で夜通し飲んでいた。
一件目の飲み屋では他のお客さんが買ってきた、海鮮の太巻きを一切れご相伴預かった。
二件目の焼き鳥屋ではマスターを鬼に見立てて豆を打ってきた。

しかしそのどちらも節分の夜は越えていて、あと僅かな刻(とき)がたてば、そこにはもう春の匂い香る朝が待ち構えているころだった。

『鬼は外、福は内』


                  (了)

  


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2009年2月10日 (火)

『落とす物』

会社のロッカーでの噺だ。
もちろん、相手は隣の部署の『K』さんである。


『いやぁ、この手袋、よく落とすんですよ。』
と、仕事着に着替えるのに、ベルトのバックルをチャカチャカいわせながら『K』さんが話しはじめる。

『でも、無くならない。』と『K』さん。
『ああ、そういうものってありますよね。』と僕。
僕は高校入学のお祝いで貰ったデジタルの腕時計だったなぁ、なんて思っていた。


『仕事の帰り、雪が降ってたんですけど、』
『ちょっとした用件があって、携帯でメールを打ってたんです。』

彼は独特のリズムで、タンタンタンタンと話しはじめる。

『で、(メールを)打ち終わって、手袋をしようと思ったら、…』
『ああ゛〜!無ーい!』って、ソッコウで駅まで戻って、…』

僕はニコニコとうなづいている。

『そうしたら、白く積もった雪の道に、ちょっと盛り上がっているところがありまして、…』
『近づいていったら、手袋の上に薄っすら雪が積もってて、…』
とニッコリ微笑む『K』さん。

『『ああぁ、良かった』って、その話し、ウチの(彼女)にもしたんですけど、
 今度は、初詣で…』


『その手袋、ひょっとして彼女から貰ったもの?』と僕。
『そうなんです。』と『K』さん。

『落ちてるのはなぜだか、女性物が多いですよ。しかも、こんなに洒落た男性物は落ちていないですよね。』
と僕は言った。
茶色の革手袋にはオレンジ色のステッチがあしらわれている。


『で、初詣は?』と僕が聞くと
『はい。』といって、『K』さんはまた話しはじめる。
『川崎大師へ行きまして、』

『ええ゛〜!』と僕。
関東で一、二の参拝客を集めるお寺さんだ。

『ええ、やっぱり混んでまして、』と『K』さん。

『その後、(彼女と)実家に帰る予定だったので、
『…後どれくらいで行くから…』
みたいなことを行列の中で電話をしまして…』

『ええ』
ニコニコ話している『K』さんに
やはりニコニコと相づちを打つ僕。

『切ったところで、連れが、

『また、落とさないでネッ!』

って、言うから
『ああ、大丈夫!』って携帯を持つ手を見たら、片手の手袋が、

『ああ゛っ〜!!! 無っーい!』と『K』さん。

『直ぐさま振り返って、冷や汗たらして、初詣の行列、掻き分けて、
『スイマセン、スイマセン』
って潜るように逆流して、
混んでて先に進めていなかったことが幸いしまして、
程なく戻ったところに、踏まれず落ちてたんです。』
とリズミカルに話し終えると、またまた『K』さんがニコリ。

『あー良かった。』って、『K』さんは安堵の表情でも、彼女の方はそうでもない様子だったと、

手袋が無くならないのも、彼女の『愛』か、それとも『執念』か…


                    (了)

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2009年2月 4日 (水)

『ソプラノ』

 もともと、オペラに感心がなかった訳ではなかったのだが、ほんのさわりとはいえビックリした。


 それはピアノを習っている姪っ子の初めての発表会の『おまけ』だった。
 相模原の定員200名程の会場で、およそ50人の子供達がソロとデュエットの二曲ずつ計100曲を演奏した。(三時間半くらいかかったかな)
 そして会の最後に、ピアノ教室から子供達と親御さん達へ、歌のプレゼントが用意されていたのだ。


 両肩を丸々露(あらわ)にした、サーモンピンクのカクテルドレス。
 『ソプラノ歌手』の登場である。

 僕の持つオペラ歌手のイメージより細めだ。
 それでも悠然と、堂々とステージの中央に現れた。


 最初は『夕方のお母さん』という童謡を歌った。
『由紀さおり、安田祥子姉妹』の影響か、とか、
 歌詞が面白かったので、今度カラオケで歌ってみようか、なんて思ったりしてしまった。

 そして次の曲を聴いたとき、僕はその軽率な想いを恥じた。


『「ジャコモ・プッチーニ」作曲、オペラ『ジャンニ・スキッキ』より『私のお父さん』』


その細い首、小さな頭より奏でられる歌声は、ホール全体に響き渡った。

『O mio babbino caro, mi piace,e bello.……』
『ねぇ、優しい優しいお父様、 私が好きなあの人は美男子なの。……』

 迫り来るソプラノの声が、次第に僕の胸を打ちはじめた。
 そして僕に、自分でも信じられないことが起きた。

『Si,si,ci voglio andare! E se l'amassi indarno.……』
『そう、どうしても行きたいの! もしこの愛が無駄だったら、…』


 僕の瞳から涙が零れはじめたのである。


 どうして涙が出てくるのか、イタリア語もストーリーも分からないのに、…
 僕は潤む瞳で、ステージライトに光り輝く彼女を呆然と眺めていた。


『… andrei sul Ponte Vecchio, ma per buttarmi in Arno!……』
『…私はヴェッキオ橋に行って、アルノ川に身を投げるわ!……』


 圧倒的な声量で、抑揚のある旋律が、
 その生の高音の波長が僕の心の琴線に触れた、ということか。


 テレビやCDではオペラも聴いたことはあったし、『マリア・カラス』のCDだって持っている。
 映画『ディーバ』は僕の学生時代に観た中で一番のお気に入りだった。


『… O Dio,vorrei morir! Babbo, pieta pieta!』
『… ああ、神様、死んでしまいたいくらいに!
            ああ、お父さん、お願い、お願いです!』


 僕は涙が止まらなかった。
 正直自分でもなぜだか分からないのだが、とにかく涙が零れていた。
『ソプラノ』が僕の中のどこかを刺激し続けていたことは確かだ。

 こんな経験は初めてだった。
 人の声の威力にまいった。

 僕は、その生(なま)の『ソプラノ』に、

『Bravoー! bravoー!  bravoー! ”Soprano”ー!』
と濡れた頬を、周りの席の身内に見られないようにしながら、心の中で声をあげていた。

                    (了)

※ 歌詞及び和訳は、ウェブサイト『AI'S OPERA NOTE』
(http://www3.cty-net.ne.jp/~kato543/)さんより引用させていただきました。

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