『二つの光』
マイケル・ジャクソン氏が亡くなった。享年、50歳。
エンターテイメントの世界で間違いなく一時代をつくった人だ。
ジャクソンファイブの頃は、リアルタイムで見ることはなかったが、1980年代、僕が高校に入ると日本でもアメリカの『ビルボードチャート』や『MTV』の情報や番組が随分と流されていた。
僕はラジオから流れる曲をエアーチェックし、テレビに映される映像をビデオに録画したりした。
その中でも、マイケル・ジャクソンの存在は特別なものだった。
『ビリージーン』も『ビート・イット』も『スリラー』も『バッド』もみんな衝撃的だった。
見ていて、ワクワクした。
曲にあわせたダンスの振り、キレ、テクニック、その全てに見入っていた。
何度見ても、見飽きることがなかった。
彼の存在を見ているだけで、満足していた。
『ムーンウォーク』も『スリラー』も踊りたいと、ビデオを見ながら、真似をしようとした。
それは、ピンクレディーの振りを覚えようとしていた、僕の一世代後の女の子達のように、僕以外にもたくさんいたに違いない。
プロレスラーの三沢光晴さんが亡くなった。享年、46歳。
金曜、夜8時。NET、現『テレビ朝日』で中継されていた『ワールドプロレスリング』。
家中最年少の僕は、母親の静止を無視して、そのチャンネルをジャックした。
当時、アントニオ猪木氏率いる『新日本プロレス』とジャイアント馬場氏率いる『全日本プロレス』が日本のプロレス界の双璧をなしていた。(もちろん、『国際プロレス』もなかなかいい味を出してたけどね)
僕はどちらかというと、ストロングプロレスと言われた、いわゆる『新日』派だった。
『全日』のエンターテイメント色の濃さに少し抵抗があったのだと思う。
その後、ジャイアント馬場氏が亡くなり、『全日』のエースだったジャンボ鶴田氏も病に倒れた。
『全日本プロレス』は御家騒動の様相を呈し、トップレスラー達は一同に脱退。
三沢氏自らが社長となって、現在の『プロレスリング ノア』を立ち上げた。
何も知らない僕は、これまた、いくばくかの抵抗を感じていた。
しかし、実際はもうこの頃、あまり熱心にプロレス中継を見ることはなかった。
が、ある年の、ある日曜の深夜、日本テレビで放映されていた試合は、話しが違った。
『三沢光晴 VS 小橋建太』
この試合は、(おそらくプロレス大賞の年間最高試合に選ばれたと思う。)まさに『壮絶』の一語に尽き、それまでの抵抗や異和感が一気に吹き飛んでしまうくらいのものだった。
ライティングやカメラワークも『新日』のそれとは、全く違うイメージだったが、そのぶつかり合い、技の掛け合いや受け合いは久しぶりに興奮するものだった。
二人とも、50年そこそこの短い天寿ではあったが、僕の記憶の奥底で永遠の輝きを放ち続ける『光』となることだろう。
(了)



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