心と体

2012年2月22日 (水)

『 大人の男 』

男、四十を半ばも過ぎ、初めて電気カミソリを買った。


『Braun Series 3』 Photo_4
である。

今年の冬の寒さがそうさせてくれたのだ。

僕は今までT字型の安全カミソリを使っていた。
『Schick』の二枚刃『スーパーツー』だ。

自分の髭にあまり自信がなかったからだと思う。
自分のヒゲにあまり自身がもてなかったから。
自身というのは、濃さやコシ、太さのね。

電気カミソリを使うほどもない、高校生並のヒゲという感じ。

そして今年は例年になく寒い日が続き、寒い洗面所で長い時間を過ごさなくてよいようにとの、家内の助言にによって購入に至ったのだ。

四十六歳にして、大人の仲間入りを果たした気分である。

で、大人の男というとまず親父がいて、お祖父さんがいた。
一緒に住んでいたお祖父さんは母方で、こちらは確か『T字』型の安全カミソリを使っていた。
刃が両方に見えてるヤツね。

明治生まれにしては大きなガタイを丸めながら、 Photo_5
アルマイト製の洗面器を抱えていた。
隣の家の浪板塀が迫った窓に差し込む光りをあてに、立て掛けた鏡と対峙するのである。
ブリキ職人だったお祖父さんの大きな手に小さな安全カミソリが摘まれ、ジョリジョリとやっていた記憶が残っている。

頬が下がり、喉の皮がたるんだ八十過ぎの老人のヒゲソリは、今思うとなんともスローライフな光景である。


一方、遠く離れた北海道に住む父方のお祖父さんは、明治生まれのちょっとした『モボ』、つまり『モダンボーイ』で、カメラや蓄音機なんかを嗜んでいた。
『ハイカラ』ともいえるそんな人だから、電気カミソリなんかも普通に使っていた。
それが、『Braun 』だった。

確か、高校生くらいの時だったが、そんな話しの中で記憶に残っているのは、お祖父さんはヒゲを剃るのに『ゾーリンゲン』の一枚刃のカミソリを使っていたということの方だ。
しかもその刃は自分で研いでいたそうだ。 Photo_3
電気カミソリ『Braun』の話しではない。
実際に持ち歩いていたのが、どっちだったか。
両方とも見た記憶もあるが、定かではない。
どちらにしても大人の男を象徴するツールである。

逓信省郵便局員として勤めていた(はずの)お祖父さんが、身だしなみに気をつかっていたことは想像がつく。
お祖父さんのヒゲは濃く、すでに白かった。
一枚刃を当てると、『ゾリッ、』って音がするから、『ゾーリンゲン』っていうんだ、なんて思ったこともあった。
ってことは、もっと幼いころの記憶か。


小学生の頃、親父と銭湯へ行くと、口の周りに泡をつけて、ロッカーの四角いアルミ製の鍵でもって、ヒゲソリの真似をしていた。
当時、銭湯通いの小学生なら経験があるのではないか。

何年か前に、父親のいない中学一年生にヒゲを剃っているところ見せてやってくれと頼まれたことがある。
こんなことは習うもんじゃないと思ったけれど、知らず知らずに覚える手本があるとないとでは、違うのかもしれない。

話しはそれたが、お祖父さんが使っていた電気カミソリは『Braun』だったのには違いなく、そして親父が使っているのも『Braun』である。

代々『Braun』の電気カミソリを使っているので、自分も買う時は『Braun』にしようと思っていたのだ。

そして初めて使った感想はというと、もちろん『大人の男』の仲間入りをした感じである。

               (了)
※ 『ゾーリンゲン』の一枚刃のカミソリ画像を探していたら、おそらく僕の記憶にある上の写真はおそらく『日本剃刀』という種類のもののようでした。
で、母方のお祖父さんの両刃のT字カミソリの画像を探していたら、『ゾーリンゲン』の刃『メルクール』を使用した安全カミソリのイメージでした。
記憶が錯綜しているようです。

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2011年5月 1日 (日)

『  南 へ  』 −3ー

4月19日、今『ひずみ』のエネルギーは少しずつ、大分取り除かれてきた。

原発に関しては、事態が安定しているように見えるからか、深刻でいることに、怯えていることに疲れたのか。
当時、現実的に『危機』として捉えていた部分が自分の中で緩和されきたのだと思う。
喉元過ぎれば、というのは危険な発想だ。

近頃、テレビでは、『ちゃんと恐れる』とかいった表現が使われていたっけ。
その為には、ちゃんとした情報をちゃんと聞いていないと駄目なのだが、自分自身も少し怠けてきたきらいがある。

そう思い直してテレビのチャンネルを捻ると、画面には『石原軍団』の炊き出しや、『復興構想会議』による被災した各県、市、町の首長や有識者の意見が交わされたりしている。

『放射性廃棄物』『計画的非難区域』『福島の小学校の校庭の土』など、問題が次々とあがってくる。
まだまだ、現実から目を逸らせてはいけないとココロする。
(今日4/28、あの日の四十九日法要のニュースが流れていた。)

今回、タイムリーにアップしていない。
この記事の書きはじめは三月だった。
想いの変遷もあるし、思っていても書けなかったり。
実際、書いてからもアップすることができなかった。
他のネタすら書く気になれなかった。
時系列にも書かれていない。
僕には迷いがあった。

自分の心根の弱さを今、吐露することが正しいことかどうかも正直迷った。

迷いの一つは大震災の被災者に対しての想い。
更に被災地でボランティアをしていたり、沢山の義援金を寄付している人達の水を差すことにならないだろうか、と。
一つは原発への不安を同じように抱える人々に対して。
パニックを助長してしまうのではないかとか。
(一日に十件もカウントされない素人ブログだけどね。)
(そしてもちろん、自分の駄目さ加減をさらけ出すことに対しても)

そんな迷いの素を日常の生活の陰におくことで、普段通りの行動がやけに眩しく見えてしまい、なんだか何をするにしても後ろめたくなってしまう。

震災以来、普段以上に自分自身に膜がかかった状態に息苦しさやもどかしさを感じているのは、僕が考え過ぎなだけなのか。

『がんばろう!日本!』というフレーズは、被災者だけでなく、僕のような人間一人一人にも声を掛けているのかとも思う。

被災地の人々のことを思えば、東京でこんな弱音を吐いていてはいけないと思うが、敢て『カミングアウト』したからには、今後は原発や震災によって被災した人々にきれいごとの言葉を並べるだけでなく、自分自身が今まで以上に強く、冷静に振舞い、大きな気持ちを持っていきたいと思う。

南へはまたいつか、行楽でいくことにしよう。

               (了)

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2011年4月27日 (水)

『  南 へ  』 −2ー

原発がこの状態になってまもなく、
『南へ…』逃げた方が良い、と言った知り合いが身近に現れてから、僕は動揺しはじめた。
その人のココロの揺れが、リアルに伝わってしまったのだと思う。

僕は買いだめはしなかったけど、買いだめは『不安解消行動』のひとつだとか。
また僕の知り合いのココロの揺れが僕に伝わったように、マスコミ、口コミを通じて多くの人々に広がってしまった結果、『集団心理』ってやつが生まれたんだなんて、テレビでもっともらしく使われている『心理学用語』に納得してしまう。

『心理学』なんて言葉を聞くと、醜く、愚かな行動をとる人々の気持ちも分からないではないな、と思ってしまった。
自分も弱っている証拠か。

まぁ、そこをどこまで理性的になれるかが、その人の器だと思うけれど。
実は僕も、二、三日マスクをして外出した。
花粉症でもないのにね。


僕は、ボランティアができるわけでもないし、自粛だってそんなにしているわけでもない。
ついついこんな言い訳がましい言葉を吐いてしまうのは、自分は弱い人間だからと勘弁してと誰かにアピールしたいのか。

それならまだ、我が道を往く買い占め、買いだめをする人間の方が正直で、潔いか。


『南へ……』と言った知り合いの言葉に動揺し、怒りまで感じたのは、自分ではできないから、妬んでいたのではないのか。

怒ったのは、その人が南へ行くことではなく、僕にそのことを聞かせてきたことだろう。

三月の後半、僕は東京で引越の手伝いをしていた。
地方から、東京へ越してきた知人が、新天地で意気揚々としている最中での連絡だった。
共通の知人だったので、その場の空気が重くなったことは手に取るように分かった。

東京の水に規定値を越えたヨウ素131が検出された頃だったか、原発の建家が水素爆発で吹き飛ばされてまもなくだったか。
おそらく、首都圏に一気に動揺が走ったときではないか。

僕は楽観するよりも、ココロを強く持とうとした。
このことは逃げ出したいことの裏返しだったはずである。

僕の中では、地震のしくみのように『ひずみ』のエネルギーが溜まっていったのが、自分でもよく分かった。

               (つづく)

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2011年4月23日 (土)

『  南 へ  』 −1−

昔からの知人が、ガンに罹ったと聞いた。

胃ガンだったか。
摘出は終えて、また仕事を始めているらしい。
お店を開いている。

早期発見で良かった。

退院後に、店に何度か電話をしたが誰も出なかった。
自宅兼用だったが、予定では開けているはずだった店も開けていないということだ。
携帯電話の番号が変わっていたようで、繋がらなかった。
また入院したということか。

結局その後、連絡をとっていない。
気にかかるのだから。ぶらりと暖簾をくぐればイイのにそれをしない自分がいる。

行動をともなわない心配なんて、なんの役にも立たない。

変わった携帯の番号を聞いていないくらいに疎遠になっていた。
聞いていたはず、と思いたい。
浅からぬ縁のある人だから。
なのに、僕は見舞いにも行かず、電話の声すら聞かず、店にも到底行ってはいない。


*** *** *** *** *** *** *** *** *** ***


東日本大震災が起きて、もの凄い数の人が地震と津波との被害に遭い、被災している。
更には、福島の原発事故で多くの人々が被爆しないよう東京電力及び関連会社の人、自衛隊、消防、警察の人々などが、いまだ経験したことの亡い仕事に、猛烈に従事している。

福島、茨城、栃木、千葉など関東近県の農家、漁師などは風評被害にあっている。
(更に昨日、被災し、他県へ逃れてきた小学生が、その事で『放射能が移る』とその県の子どもに言われた上に、避けられたなんてニュースまで流れていた。)


東京で、平然と毎日の仕事をこなしているように見える僕は、心の片隅にはいくばくかの不安を宿している。

この震災に対して何かできることはないのかと考えたりもする。
もともと普段から節電しているうえに更に節電したりとか、僅かばかりの寄付をしたりして。
けれど、それは平静を装う自分自身が不安を感じていることが恥ずかしくて、それを隠すためだったり。
自粛や援助をしないと日本人じゃないという、流れにのらないと仲間はずれになるという不安を感じているのではないかと自分自身に疑心暗鬼になる。
僕は良い子ぶっているのか。


大阪でも、九州でも、電池が、物資がないというニュースが流れて、なんだこの国はと思ったけれど、よくよく聞いてみると、南へ下れば温度差はあった。
主に、原発のね。

関東以北、東京電力管内では、節電という理由もあるが、それより南の町ではそれほどの自粛ムードが流れているかは、あまり報道されない。
その必要はないけどね。

過剰な自粛は経済に影響するので、その必要はないと思う。
阪神淡路大震災の時、果たして関東以北の人々がどれほど自粛したかなんて記憶にもないし。

               (つづく)

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2011年3月25日 (金)

『 イマジン 』

甚大な被害を被った東北地方。

被害という言葉の中には、沢山の無くなられた方々。
崩壊した家、町。
歴史や文化や思い出がいっぱい積み重なっていたはずだ。

命からがら、逃げ延びた被災者は明けない冬の、東北の寒さと空腹の中、皆で寄り添い合いその現実に立ち向かっている。

僕らはそうした人々になにかできることはないかと考える。
が、その一方で、地震による津波が引き起こした原発の事故で、首都圏の気弱な人間を深刻にさせている。
実は僕自身も少し怯えている。

仕事をしているとその不安が解消されている。
皆、仕事に没頭しているからだろうか。
そのことを忘れられるからなのか。


テレビで見た。
若い人が亡くなり、年老いた自分が生き残ったことを悔いる老婆の瞳から、涙が流れていた。
津波に流されて、泥水を飲んで生き延びた老人もその恐ろしさを思い出して震えていた。
親御さんとお子さん三人を亡くされた三十代男性。
お父さん、お母さんがいまだ行方不明の小学生がいたり、と助かったのに絶望、失望しそうな状況が山ほどある。

その小学生は避難所の体育館を、お手伝いで走り回ってお年寄りに希望を与えていた。

僕らは自分の為の飲み水やら、食料やらを確保するのに走り回ることをなんと思うのか。

被災地でのマナーの良さが、日本という国の、国民の素晴しさを世界に知らしめてくれたはずではなかったのか。
確かに放射性物質の汚染は怖いかもしれないが、まだ自分の力ではどうにもできない赤ちゃん達が必要としている水を大量に奪い合うのだけはやめよう。

水を買いあさっている人達は何を想像しているのか。

東京が被災した場合に備えて、米や保存食を。
ついでに、トイレットペーパーや紙オムツ。
今度は停電した時の為に、懐中電灯と、電池を。
水道水の汚染が酷くなった時の為に、ミネラルウォーターを。
って、

もっとその先を想像すれば、今していることがどれほど無駄であり、皆の為にはなっていないことが分からないのだろうか。
例えば、もっと想像して、もしその水や米や電池や懐中電灯を必要とする時が、この東京に来た時、その買い占めた人達は、果たして東京にいるのだろうか。

僕らが想像すべきは、もし万が一、この東京が被災地になった時、東北の人たちと同じように寄り添って、力を合わせて、絶望の中にも希望の光りを見出して前を向いて歩き続けることなのではないだろうか。

僕らは被災した避難している人達の生活を想像するところから始めるべきなのだ。
そうすれば、我先にと、自分だけがと思うことがなくなるのではないだろうか。

ここのところの原発の問題で、少し不安定になっている自分自身にも自戒の念をこめて、

               (了)

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2011年3月14日 (月)

『 パンの消えた町 』

今日は近親の心臓の検査で休暇をいただいていた。
おかげさまで無事でした。

医者の先生曰く、
『綺麗に(梗塞が無く)通っていた。』
と。

見舞っていると患者が、『パンが食べたい』(サンドイッチとクリームパン)と言い出した。
で、病院付近のコンビニやパン屋さんを捜したのだが、なかなか思うようなパンが見当たらなかった。


午後二時過ぎ、節電による運行状況の為、中央線、山手線、京浜東北線、どれも混雑した路線を乗り継いで、帰宅した。

いつもの買い物をしようと、近所の商店街へ出ると町はいつになく混んでいた。
僕は毎朝食パンを食べているのだが、その食パンがやはりまた、見当たらない。

多くの食料品が被災地に送られているからか、物流が滞っているからか、普段食べないのに買いだめをしている不実な輩が多いからかなのか分からないがパンが無い。

米屋に行列する人。
『食べるモノが無くなっちゃうよ。』
と馬鹿な呼び込みをしている八百屋のオヤジ。

オイルショックの時ってこんなだったのだろうか。
当時まだ、六、七歳だったので、記憶には無い。

売る側も、買う側も眼の色が違うように見えたのは気のせいか。
『集団心理』というのかもしれないが、街全体の雰囲気が、なんとも異様で不気味だ。
この機に応じて、便乗販売や不当な値上げなどが起こらないことを願いたい。

また、『輪番停電』では情報が錯綜しているようで、電気が停まらないエリアの店が閉まっていたり。
電車等の交通もかなり混乱を来している。


今『すべきこと』は、旧友のヘロさんのブログ(http://herono.blog130.fc2.com/)に僕の考えも代弁されているので、それを読んでいただいて。(言葉は少し荒っぽいですが、……)

で、自分が今できることは、
米やパンを今まで通りたらふく貪るのではなく、少し少なめにすること。
明日の交通事情に対応できるよう早起きする為に、早寝をして節電に協力をすること。

『パンの消えた町』をフラついて、僕はそう思った。

               (了)

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2011年3月 9日 (水)

『 禁煙の方法 』  2/2

僕の吸い始めたのは比較的に遅く、21歳。
文学をかじりはじめた頃だ。
一日一箱、20本くらい。
お酒を飲む時や、パチンコをやっている時は増えてしまい、30〜40本。

酒とタバコとコーヒーが文学には付き物のように思っていた。
格好つけね。
『退廃的に』、『ハードボイルドに』。

それでもお酒やコーヒーと一緒に吸うタバコはホントに美味しかったなぁ。

『カレーライス』を食べる時は、食べ始める前からタバコのことを考えていたっけ。
美味しいタバコを吸う為の最高の料理。
『食前酒』ならぬ、『煙前食』。
それくらい相性が良い食べ合わせだと思った。


タバコを止めてから、一年半くらい経っただろうか、僕は休みの日、ベランダでプランターの土いぢリをしながら、葉巻の煙をくゆらしていた。
またしても格好つけの遊びである。
『マフィア』のように『プロレスラー』のように。

タバコは煙を肺に入れるから身体には良くないけど、葉巻なら口先で吹かすだけだから安心、的な発想があった。

まぁ、あまり変りはないんだろうけどね。
ただ、その意識で吹かしているもんだから、むせることも無い。

薫りが強いので、室内では喫煙禁止。
それと、一本安くても300円から400円するから、普段は吸わないし、吸っていい場所も少なかった。
昼間の『Cigar(シガー)』with『Beer(ビアー)』@『Veranda(ベランダ)』はとてものんびりとした休日を実感できた。


で、今である。
お酒を飲んでいて、極たまに貰いタバコをすることがある。
が、このタバコが不味い。

『タバコ』ってのは、『草の煙』のはずなのに、紙の味しかしない。
『煙紙』って当て字をすればイイと思うくらいだ。

僕の身体はそう感じるようになっていた。
タバコが不味く感じるようになったのは、体質が変わったからではなく、本当の葉巻タバコを吸ったからこそ、気付いたのではないだろうか。

タバコをやめたいと思っている方々への提案。
しばらく『葉巻(シガー)』の世界に嵌まってみてはいかがでしょう。
きっと、タバコが紙臭く思えて吸いたくなくなると思いますよ。

かなり遠回り。
ま、一つの方法としてね。

               (了)
シガーの参照サイト:
『シガーコネクション』http://www.cigar-connection.net/
『独断と偏見のCIGAR Review』http://homepage2.nifty.com/cigareview/index.htm

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2011年3月 5日 (土)

『 禁煙の方法 』  1/2

昨年十月にタバコの値上げがあった。
というより、タバコ税の値上げか。

『取りやすいところから取ってばかり、』とか、『多く払っているのに肩身が狭い。』とか喫煙納税者には災難な時代である。


そんな僕はといえば、かれこれ七年いや、八年くらい経つのだろうか、現在はタバコを吸わなくなっている。
当時、一月一日の午前0時から吸うのをやめた。

理由は、その頃、四十を前にして、身体にちょっとした異変を感じたからだった。
普段、肩など凝らないのに、どうも首から肩、肩甲骨にかけて重い感じがした。
これはタバコが血行を悪くしていると勝手に判断したのだ。
で、タバコをやめてみることに。
(実際に、翌年の春に病院へ行ってみた。すると、更に病院を紹介され、MRIを撮って分かった。
肩こりの原因は『頸椎ヘルニア』(5番と6番の間の)とのことでした。)


自分から吸わなくなるにしても、『禁煙!』と強制されるイメージが厭だったので、人には『停煙』してる、と言っていた。
『禁じる』のではなく、『吸わないでいる』だけという感じ。
万が一、吸いたくなったら吸ってもイイことにした。
繰り返すが、強制は厭だ。

実はその日、午前0時を過ぎてタバコを吸いたくなった時の為に、タバコサイズの葉巻(シガリロ※1)をポケットに忍ばせていった。
一日、しかも数時間も我慢ができないことは恥ずかしいと思ったので、言い訳用である。
といっても、他人用ではなく、自分にね。
紙巻きタバコではなく、葉巻(タバコ)だから、と。


その年の一月三日、つまり停煙三日目に喫煙者の友人とさしで新年会をやった。

当時流行りはじめた芋焼酎を、福岡出身の芋(焼酎)好きと二人で飲んだ。
五合の瓶(びん)を一本と甕(かめ)を一瓶(カメ)。
これが、竹の柄杓で酌む小粋な奴。
それと、彼の置き酒の一升瓶(『薩摩白波』)を半分くらい飲んだ。

どうしてそんなに詳しく覚えているかといえば、当時、芋焼酎を飲む仲間がその彼しかいなくて、僕が九州の知り合いからちょっと高級な芋焼酎を2本貰ったのを持っていったからだ。
でも話した内容は次の日だって覚えていなかったけどね。
(その日に飲んだ九州の焼酎は『佐藤』、やっぱり四合瓶だったかな。)
【全品ポイント10倍】佐藤 黒麹仕込 芋焼酎 720ml 4939371072728【あす楽対応】【10P01Mar11】
それと、飲み干した甕は持って帰ってきて、今でも取ってあるのを確かめてみたけど、『本格焼酎 20度』としか書いていなかった。
名前は、蓋にしてあった丸い板の方にラベルがあったのかな。)


ともあれ、大晦日も先輩のお宅で、みんなと飲みながら、自分ももくもくとやっていたし、その日も相手は僕に構わずスパスパやっていたのに、僕はちっともタバコを吸いたいと思わなかった。
まったく不思議なほどにね。

               (つづく)
WEBをぶらぶら眺めて探していたら、その時の銘柄はそれぞれこんなのだったと思う。
※1:『カフェ・シガー・マイルド』
http://homepage2.nifty.com/cigareview/c1n4.htm
※2:『甕雫』
飲めば飲むほどトロっと旨い!甕入り焼酎の王道「甕雫」!【発送開始】【限定】甕雫 900ml

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2009年10月25日 (日)

『 お祭り 』 ー 秋・休日 ー

九月から業務内容が変わり、土日祝日に仕事を休むことが増えてきた。
十数年ぶりのことだ。
サービス業に従事していたので、仕方がないところと納得していた。

平日休みに慣れていると、週末の人出や、料金の違いに面食らうことがある。
が、しかしである。
土日といえば、『お祭り』だ。

大好きなお祭りを見て回れることは、僕にとってこの上ない悦びである。
なので、ここにきて自宅の近所のや、都内の見たかったお祭りをいくつか見物した。

何が良いって、根っから好きなので考えなくたって思いつく。

まず、「町の雰囲気」が良い。
参加している人達の表情が楽しげで、ふわふわ、ワクワクしている。
もちろん、神事として真剣な顔をして取り組んでいる人もいるけどね。


軒先に揺れる「提灯」、玄関の「花飾り」や「しめ縄」を見れば、
『あぁ、お祭りだぁ。』と僕の心はときめき、
(近頃はお祭りでも飾られてない町も多いので寂しいけどね。)
朝から昼から商店街のスピーカーから一日中流れている「お囃子」の音色を聞きつけると僕は浮き足だつ。
そしてこれが、なんとも心地よい響きなんだなぁ。
『癒される』という言葉がまさにぴったりである。

また、町自体も、ときめいているように思える。


「御神輿」、「山車」、「曳山」。
年に一度、町に降りてくる神様を乗せて渡御する御神輿は、いわば移動式の神社だ。
厳かで、歴史を感じさせる造りは、熟練した職人達の技の粋(すい)が凝縮されている。
鋳物、彫金、彫刻、漆塗り。
鳳凰や雲形、欄間に、飾り幕。

「神酒所」や「御仮屋」のつくり、そこに飾られる竹や葭簀(よしず)の仕立て具合を見るのも楽しい。
青竹の組み方、荒縄、こまい縄(細い縄だから、「こまい縄」)、黒いけどし(ゅ)ろ縄(棕櫚縄)。
それらの結わき方なんかも、その町の鳶頭(かしら)によっていろいろだから面白い。
正確な技だけでなく、経験を重ねた職人の趣向が凝らされている。


「半纏」に「浴衣」、「手拭」なども堪らなくイイ。
江戸文字、に文様。
洒落がきいてたり、小気味良かったり、染めの色も柄もどれをとっても飽きることがない。
自分の名前を江戸文字で書いてみたりもする。
会の半纏も三着目だけど、襟に書かれた名前は自分で書いたものを染めてもらっている。
浴衣も手拭もたくさん持っていて、集めたりもしているが、オリジナルのものが多いので楽しいし、嬉しい。


お祭りのなにもかもが、小学生の頃から好きだったけど、何が良かったのか、どうして好きになったのか。
きっと『カッコイイ』し『楽しい』と思ったのは間違いない。

『御神輿』は『スーパーカー』のようにフォルムやパワーを感じ、
『担ぎ手』は『プロレスラー』のような勇猛さ、力強さ、
『山車や出店の屋台』は『遊園地』のように、…

それくらい、単純に憬れていたのだと思う。


今度はどこのお祭りに出かけようかな、と思っていたら、11月からまた土日出勤になっちゃった。
お祭りはまた、暫しお休み。


               (了)

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2009年9月26日 (土)

『 離れる 』  ー 子供編 3 ー

夕食の時、おじさんは白いランニングシャツから出した腕で、大きな御飯茶碗を持って、箸でカリカリと米を啜った。

そしてその中身に驚いた。
白い御飯が白い牛乳の中にひたひたと浸かっていたのだ。
いわゆる『牛乳茶漬け』だ。(茶漬けは『お茶』だろうに)

『美味いんだぁ』
と北海道独特のイントネーションで言う。
眼鏡の奥の目を丸くして、おじさんはイタズラっぽく笑っていた。


おばさん家のごはんは家(うち)のごはんとはなにかが違っていた。
北海道の家だからという風土の問題でもなかったような気がする。
けっして不味いわけでも、端折っているわけでもなかった。
単に他人の家庭の味なのかもしれないけどね。

僕のうちは、東京は下町の二軒長屋の一軒で、夕方に遊びから帰ってくると、路地裏には煮物や焼き魚など、夕餉の匂いがそこここに漂っていた。

末っ子の僕は、お婆ちゃんや母のあたたかく甘い味に慣れ親しんでいたのだと思う。


八月十五日。夏休みの真ん中。終戦記念日。
この日は兄の誕生日だ。

おばさんのうちから、夜、東京の実家へ電話をかけた。
はて、それとも北海道にかかってきたのかもしれない。

僕は電話をとって代わってもらい、母の声を聞いた。
果たして、二週間か二十日ぶり程度のことだ。

僕の口は曲がり、喋ることができなかった。
僕の瞳からは涙が溢れはじめていた。
おばさんちの蛍光灯が青白く揺れていた。

たかだか、二、三週間ばかり東京を離れ、母親と離れただけだったのに、僕はその声を聞いただけで、余りにも遠い場所にいることに気付いたのだ。


そういえばこの日の朝だったか、牛舎で新たな命が誕生していた。
身体の毛は溶液を纏い、黒くキラキラと光っていた。
母牛から産み落とされてまもなく、細い脚を『ハ』の字にして子牛は立ち上がった。

彼等は本能として、敵から自分の身を守る為に生まれてすぐ立ち上がれるということだ。

それに比べて、10歳の頃の僕って奴はまったくだらしがない。

今年、44歳。
10歳の姪と8歳の甥には、はたして僕自身がどのように映っているのか。
僕のどんな言葉が、彼らの記憶の中に残っているのだろうか。
僕はどれほどしっかりと地に脚をつけて生活をしているのであろうか。

               (了)

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