人物

2011年12月 3日 (土)

『 電車、駅での視線 』

都心の通勤列車では、一駅毎に乗り降りが烈しい。

朝の9時過ぎ、大宮方面行き、京浜東北線内、東京駅あたりでのこと。

扉が閉まったかどうかというタイミングの頃、おそらく30歳代と思われる男性が人混みからクルリと現れた。

僕は驚いて見入ってしまった。
その方はなぜかやたらと動いていた。

その人の手には開封されたばかりの『最中アイス』が握られており、それを口に持っていっていたのだ。
食べていたということだ。

ぎゅうぎゅうではないが、この混雑した電車内である。
しかも、朝だ。

スーツを着たビジネスマンではないとはいえ、「そんなに今、食べたいのか」と思った。

そして僕もちょっと食べたいと思った。
『最中アイス』は僕も嫌いじゃないしね。

***** ***** ***** ***** ***** *****

電車で僕の前に立つ人の腕時計に目が行った。

『ロレックス オイスターパーペチャル デイデイト』の18金無垢仕様、と思って、ハッとしたのだが、ちょっと良くみればマークもロゴも全くのコピー商品だった。(コピー商品とは言わないかな。)

どんな人がこういう時計をするのかと見ていたら、頭に異和感を感じてしまった。
僕のではなく、その人のね。


野球の硬式のボールをご存知だろうか。
その一番外側の白い革を赤い糸を切断してみていただけますでしょうか。

中には確か、グレーのフェルトの糸があちらコチラから幾重にも巻かれ、見事なまでの球状に形どられているのです。

その金無垢のロレックスもどきの時計をしている70歳前の男性の頭髪が、毛のラインが分からない、そんなような頭だったのです。

彼にとっての、『見栄』とはこういうことなのでしょうかね。

***** ***** ***** ***** ***** *****

駅のエスカレーターを降りてくる人に目が行った。

色白でぱっちりと見開いた大きな瞳。
口角のつり上がった薄い唇にツンと尖ったピノキオのような鼻。
ちょっとウェットでカーリーな髪型。

これは、まさにマイケル・ジャクソンそっくりな顔をした60代のおばさん、おばさんだったのだ。

もちろん日本人なのだけどね。

そう、この人もマツコデラックスさんにそっくりな女性がいた、あの街で目撃したものだった。

               (了)

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2009年10月 7日 (水)

『  先 輩  』

『あっ!マサトさん(仮称)が来た。』

と後輩が言った。
その言葉を聞き、僕は僕がまだ若く、或る先輩が来た時にしか感じなかった感情を思い出した。


品川という町は、江戸から外れた東海道五十三次の一番目の宿場町で、そこそこ古い下町風情を残したところである。

昭和四十年生まれの僕からすると、品川は高度成長期を過ごした京浜工業地帯と、鳶職、大工、ペンキ屋、左官屋、畳屋、蒲団屋…と言った職人の町といった印象だ。

長屋に暮らしていた僕にとっては、路地裏や銭湯などで、よその人とコミュニケーションをとるぐらいのことはしょっちゅうだし、
さらに、僕は十代からお祭りの会に所属していたので、十個や二十個くらい年上の大先輩らと一緒に旅行へ出かけたり、もちろんお祭りを楽しんだりなんてことは当り前の事だった。


物事の善し悪しを、「怒鳴られ」、「お目玉」をくらい、
「亀の甲より年の功」。さまざまな生活の知恵を、手ほどきしてくれる先輩達がいた。

その一方で僕らに、遊びの楽しさを教えてくれる先輩達もたくさんいた。

『遊び』といっても、子どもがする遊びと、大人的な遊びがあり、後者の遊びに少し悪っぽいスパイスを加えた遊びを教えてくれる先輩達もいた。

思春期を迎えた僕らには『男』を意識させる、たまらない刺激を与えてくれた。

酒、博打、喧嘩、女、……
僕みたいなビビりな男子でなくとも、皆、ワクワクドキドキしつつ、目を輝かせて話しを聞いていた。

が、僕らがそうした先輩方と話しをする時というのは、まずほとんどと言っても良いくらいに、アルコールが入っている。

アルコールが入ると、人は気が大きくなることが多い。
すると、もともと威勢の良い兄貴達のこと、僕らのドキドキは、話している内容についてではなく、僕らの置かれている状況へと移っていく。


今さっきまでニコニコと細めていた先輩の目が、突如として「どろん」とした鉛のような眼に、変化(へんげ)している。
なにやら不穏な空気が漂いはじめる。

『 …なぁいいか、…喧嘩ってのはなぁ… 』

などと、物騒なもの言いが続いていく。

『はいっ。』

僕らはその先輩の酒が無くなってはいないか気を配ったり、話しを聞いていないなんて思われないように時間が過ぎるのを待つ。


また或る先輩に関しては「同じ話し」のくり返しになったり、
またまた或る先輩は楽しい話しから、急に眼を三角にして「説教」へと移ってみたり、……

後輩である我々は、いつまでも先輩達の世界に拘束されることになる。

しかし、彼らのほとんどは、まず間違いなく愛すべき人達なのだ。

十代から二十代前半まで、僕らはそんな先輩の登場とともに『あっ、来たっ!』なんて心の中で呟くことがあった。
僕らのワクワクドキドキ感を喚起させる先輩。


僕らはいつの日からかそんな先輩達のように見られていたことを知る。
マサトだけでなく、僕も、他にもきっと後輩達からそう思われている仲間がいる。

そして、そう思っている後輩達の何人かも、そういう先輩になっていくのだろう。


               (了)

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2009年7月 5日 (日)

『 マイケル・ジャクソン 』

『マイケル・ジャクソンのダンスがなぜ飽きないのか』

『You Tube』で他のダンサーのそれと見比べてみた。

ヒップホップのダンサー達の、ロボットダンスも、アニメーションダンスも、曲に合っているし、もちろん上手だ。

それだけを見ているとかなり満足していたのだが、やはり、マイケルのダンスと比べるとどうにも敵わない。

マイケルの細長い、身体。もちろん手、脚、腰、胸、肩までの動きのしなやかなこと。
さりげなく、カッコ良く、線が綺麗で、リズム感がいいし、センスがいい。

曲の中に同じ動きが何度入ろうとも、そのタイミング、キレがすこぶるイイ上に、なんともドラマチックだ。


もちろんマイケルは歌も歌っているということが、決定的に違う。

僕なんか、英語なんてからきし駄目な上に、もともと、日本の歌謡曲の歌詞すら頭に入ってこない口なのだけれど、
歌詞に合わせての振りが絶妙だし、やはりその曲と歌声も『キング・オブ・ポップ』と言われるだけのものだ。
世界中の何万人、何億人の人を惹き付けてきたのだろうか。

これほどのエンターテナーはおそらく二度と現れないだろう。

この文章もPCの画面を半分に分けて、『You Tube』を見ながら書いている。

画面の中の彼を見ているとどうして、ただ歌って踊るだけの、パフォーマーになれなかったのだろうかと頭を過る。

肌の色を白くしたり、整形をしたり、自宅に遊園地を作ってみたり、様々なスキャンダラスな噂を振りまいてきた。

唯一無二の天賦の才を持ったまさにスーパースター。
ナイーブな精神と限界まで酷使し続けてきた肉体のことを誰が、どれほどのことを分かるというのか。


1990年代だっただろうか、マイケルが自ら、『冷凍人間』になって、何年後かに蘇るといったSFホラー的な話しもあったような記憶がある。
『ピーターパンシンドローム』というのも、この頃に流行った言葉だったと思う。


彼は完璧な『マイケル・ジャクソン』というキャラクターでありながら、とても脆い『人間』でもあった。
だからこそ、そこに大きな魅力があったのだと思う。


残念ながら、というか喜ぶべきなのだろうけれど、マイケル・ジャクソンはれっきとした人間だった。
そして、その天寿を全うするに至った。

あらためて、彼のご冥福をお祈りする。


               

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2009年6月30日 (火)

『二つの光』

マイケル・ジャクソン氏が亡くなった。享年、50歳。

エンターテイメントの世界で間違いなく一時代をつくった人だ。

ジャクソンファイブの頃は、リアルタイムで見ることはなかったが、1980年代、僕が高校に入ると日本でもアメリカの『ビルボードチャート』や『MTV』の情報や番組が随分と流されていた。

僕はラジオから流れる曲をエアーチェックし、テレビに映される映像をビデオに録画したりした。

その中でも、マイケル・ジャクソンの存在は特別なものだった。

『ビリージーン』も『ビート・イット』も『スリラー』も『バッド』もみんな衝撃的だった。
見ていて、ワクワクした。
曲にあわせたダンスの振り、キレ、テクニック、その全てに見入っていた。

何度見ても、見飽きることがなかった。
彼の存在を見ているだけで、満足していた。

『ムーンウォーク』も『スリラー』も踊りたいと、ビデオを見ながら、真似をしようとした。
それは、ピンクレディーの振りを覚えようとしていた、僕の一世代後の女の子達のように、僕以外にもたくさんいたに違いない。

プロレスラーの三沢光晴さんが亡くなった。享年、46歳。

金曜、夜8時。NET、現『テレビ朝日』で中継されていた『ワールドプロレスリング』。
家中最年少の僕は、母親の静止を無視して、そのチャンネルをジャックした。

当時、アントニオ猪木氏率いる『新日本プロレス』とジャイアント馬場氏率いる『全日本プロレス』が日本のプロレス界の双璧をなしていた。(もちろん、『国際プロレス』もなかなかいい味を出してたけどね)

僕はどちらかというと、ストロングプロレスと言われた、いわゆる『新日』派だった。
『全日』のエンターテイメント色の濃さに少し抵抗があったのだと思う。

その後、ジャイアント馬場氏が亡くなり、『全日』のエースだったジャンボ鶴田氏も病に倒れた。

『全日本プロレス』は御家騒動の様相を呈し、トップレスラー達は一同に脱退。
三沢氏自らが社長となって、現在の『プロレスリング ノア』を立ち上げた。

何も知らない僕は、これまた、いくばくかの抵抗を感じていた。

しかし、実際はもうこの頃、あまり熱心にプロレス中継を見ることはなかった。


が、ある年の、ある日曜の深夜、日本テレビで放映されていた試合は、話しが違った。

『三沢光晴 VS 小橋建太』

この試合は、(おそらくプロレス大賞の年間最高試合に選ばれたと思う。)まさに『壮絶』の一語に尽き、それまでの抵抗や異和感が一気に吹き飛んでしまうくらいのものだった。

ライティングやカメラワークも『新日』のそれとは、全く違うイメージだったが、そのぶつかり合い、技の掛け合いや受け合いは久しぶりに興奮するものだった。

二人とも、50年そこそこの短い天寿ではあったが、僕の記憶の奥底で永遠の輝きを放ち続ける『光』となることだろう。

               (了)

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2009年6月16日 (火)

『いただきもの』 ー 2 ー

その前日、団塊の世代の先輩『T』さんから思わぬものをいただいた。

『越中褌』だ。

そう、以前に『アンダーウェア』の回で、書いた『おじさん』からだ。
http://minoru-iroiro2.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-c78c.html参照)

『おじさん』こと『T』さんは出張先の『中国』で、僕がこのブログで『Tさんの褌』について触れたことを知ったのだそうだ。
いろいろと世話になっている後輩の『H』から聞き、覗いてくれたらしい。
そして僕へのプレゼントと相成ったわけだ。

かれこれ、五十年はこの『越中褌』をしている。
今はいているものは、全て自分の手作りだそうだ。

真っ白で、まっさらの『越中褌』。

初めて僕が手にしたそれを、そばにいた後輩は、手術の時につける『T字帯』だといった。

1センチ程の太さの紐に30センチ×80センチくらいの晒がひらひらと『T』字を描く。

正直、いったいどうしたものかと思った。


日曜日お神輿を担ぐ前に『T』さんに訊かれた。

『ふんどし、つけてきた?』
『あっ、いやっ…』
『なぁんだよ、せっかく持ってきたのにぃ、…』
『ああ、…』

たしかに、少し申し訳ない気がした。


お神輿を納め、詰め所で後の祭り。
余韻で軽く一杯やって解散。

その後、居候をしている同級生の家でシャワーをいただく。
上がって、いただいた越中褌をつけてみた。
確かにつけ心地がイイ。

しかし、鏡に映った自分のフンドシ姿を見て、下着とはいえ、やはりどうも、…

どうも、ありがとうございます。

『玉子焼き』も『越中褌』も、こうした気遣い、心配りはなんともいえず嬉しいものだ。

僕はその素敵な『いただきもの』にとても感激し、地元の街の心地良さをほのぼのと感じた。

             (了)

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2009年6月13日 (土)

『いただきもの』 ー 1 ー

六月五日から七日までの間、地元品川のお祭りにどっぷりと浸かってきた。

お祭りの会に所属していると一年のうち何度か決まって会う人と一年に一度しか会わない人もいる。
そして今回、何人かの人からいただきものをした。


江戸趣味の先輩『H』さんと町の鳶の頭からは毎年恒例となっている『てぬぐい』を頂戴する。
オリジナルデザインで本人の名入りという大変凝ったものなので、毎年楽しみになっている。

この『てぬぐい』を集めて、『胸割り』とか『エグリ(抉り?)』と呼ばれるシャツを作って着る人もいる。


そして今年は、いただいたものの中に特別なものが二つあった。

僕の江戸趣味の師匠でもある先輩『IT』さんは、お祭りのことはもちろんのお寺や、神社、半纏や帯、浴衣のことなどもよぉうく知っている方だ。

普段お世話になっている『IT』さんにお祭りで食べてもらおうと、母親の手作りの『大根の皮とするめいかのハリハリ漬け』(松前漬け風)を持参した。

その時、『IT』さんの奥さんのお勤めが王子駅からバスで何分かのところにあることを知った。
僕は僕で、つい最近、『都電荒川線』の『王子駅前』で降りて、江戸の昔から有名な『玉子焼き』屋さんを探して見つけられなかったことを話していた。
http://minoru-iroiro2.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-b733.html参照)

お祭りの三日目、その奥さんからいただいたのが、落語『王子の狐』で登場する『扇屋』の『玉子焼き』である。

薄茶の包み紙に、緑と茶と黒の歌舞伎の幕色の紐でくくられた折は古き良き風情を感じさせてくれる。

そしてズッシリと重い。

後輩に切り分けてもらい、皆でいただいた。

酒好きの辛党の人もいれば、下戸で甘党、僕のような両刀使いのものも居るので、好みはいろいろで、賑やかになった。

落語にも詳しい『IT』さんは甘党で、江戸の老舗の味を楽しそうに味わっていた。


『大胆に甘くて、酒の香りと卵の風味がきいた懐かしい味で、ふわふわの食感が嬉しい。』

御馳走様でした。

Photo


             (つづく)

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2009年2月16日 (月)

『 誕生日 』

2月16日と言うと『北の将軍様』でも『高倉健さん』でもなく、
『僕の父』の誕生日であることがまず思いつく。

『誕生日おめでとう。』
少し恥ずかしいような、嬉しさがなんとも言えず好きだ。
自分が言われた時のことだけどネ。


何が『おめで』たいかって、それは正月と一緒で、また一年、新たな年を迎えられたという、
『生きている』ことへの賞賛だ。


歳をとるとよく、
『もう祝ってもらって喜べる歳でもあるまいし…』
と言う人がいるがそれは間違いだ。

『歳をとること』がマイナスイメージだから、そう言わしているのだろうが、
子供の頃、ケーキにろうそくを立てていた喜び方への照れがあるのかもしれないが、
『生きていること』『生かされていること』を素直に喜ぶべきだと思う。

父の母であるお婆ちゃんは、晩年リウマチで身体が動かせないでいた。
それだけでなく痛みも伴っていたので、普通に生活すること自体がかなり辛かったはずの人だ。

しかし頭脳については80歳を過ぎてなお、明晰であった。

そのお婆ちゃんが言った。

『人間はどんなに辛くても、生き続けていかなくてはならないのよ』
『生きることが、大事なのよ』と、

これはおそらく、僕がいつもベッドで寝ていたお婆ちゃんに、
その頃僕が文学に興味を持つきっかけとなった本、夏目漱石の『心』を読んでもらったからだと思う。

多感な時代の僕に、その小説の影響で命を投げ出すようなことがあっては『駄目』よ、という意味合いだったのだろう。


そのお婆ちゃんから、74年前の2月16日、僕の父が生まれてきた。

まずは『誕生日おめでとう』


              (了)

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2009年2月14日 (土)

『天使』と『チョコレート』

2月14日。

今日は巷で言われる『バレンタインデイ』
『チョコレート』の話し、と言いたいところだが、
二年前に『天使』が旅立ったことを知った日だ。


僕が二十代後半にお世話になった鳶の頭がいる。

仮に『T』さんとする。
『T』さんの誕生日が2月14日だ。

『T』さんは、昭和二十三年の早生まれで、いわゆる『団塊の世代』の中心の生まれの人だ。
『T』さんは若い頃から無鉄砲で、若い頃の彼を題材とした小説を書いた人がいるくらいだ。

僕が彼に知り合ったのは、そう言う意味では、もうかなりまぁるくなってからということになる。
彼には、若い奥さん、『H』ちゃんと三人の子供がいた。
後輩でもある『H』ちゃんは16だか17歳かで、身籠り、結婚をしていた。
子供達は皆、素直で明るい性格の持ち主だった。


その中で、一番下の『チィ』ちゃんはまさに『天使』のようだった。
(『天使』っていう言葉は、『Hちゃん』が言っていた言葉だけどね。)

『チィ』ちゃんは、『T』さん、『H』ちゃんも含め、我々、大人達がなにを悩んでも、なにを叫んでも、すべてを受け止めていた。

大人が喧嘩をしていれば、『うーん、分かるけど、やだな』って顔をしていたし、
みんなが楽しそうにお酒を飲んでいれば、『ふふっ、ふふっ』って、一緒になって笑っていた。

時には、『もうイイから、寝かしてよ』なんて顔をしていたときもあったけどね。

『チィ』ちゃんは言葉こそ、発しなかったけど、すべてを分かって、すべてを語っていた。

『チィ』ちゃんは16年で生涯を全うしてしまったけれど、
残された、『チィ』ちゃんを知るすべての人たちが、
どんなに、こんなにもキツい世の中になっていたとしても、
いつも、その『天使』に、
『天使』に見守られている、と感じながら生きていけば、きっと、
自分を投げることもなく、少しでも前へ進んで行こうと思えるのではないか、…


『チィ』ちゃんが羽ばたいて行ったことを知ったその夜、
僕は『T』さんと、ザーザー降りの雨の日の居酒屋で、
『T』さんの誕生日だか、『バレンタイン』だかのチョコレートを御馳走になりながら、
焼酎のお茶割りを酌み重ねた。


                     (了)


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2008年11月12日 (水)

『最後のニュース』

十一月七日、ジャーナリスト『筑紫哲也』氏が亡くなられた。
享年73歳。

今年三月まで、彼の名を冠に頂いたニュース番組を放送していたTBSが彼のガン宣告より始まる、500日にも及ぶ闘病生活中の日記、
『残日録』をもとに制作した番組を放送した。


筑紫氏に親好の厚い人々が彼を
『座標軸』と、『太陽』と
語っていた。


『間口の広い』『教養人』で『ニコニコ』と『公平、公正』に『権力と立ち向かう』『ジャーナリスト』だったと、
彼と対峙した、取材を受けた人々が、政治家、スポーツ選手、哲学者、芸能人、新聞記者、一般の人々達までが彼を讃えていた。


彼の仕事をここで語るまでもないが、これだけの多くの人に愛された(そんな簡単な言葉で表してはいけないような)ニュースキャスター、ジャーナリストも珍しいのではないかと思う。


シンガーソングライター、井上陽水氏が筑紫氏に掘り起こされなければ世に出なかったのでは、と言った楽曲、『最後のニュース』をこの番組の最後で歌っていた姿が印象的だった。

彼の厚く黒いサングラスの奥、心の奥には涙が溢れていた。


『最後のニュース』              
                    作詞  井上陽水
                    作曲  井上陽水
                    唄   井上陽水

闇に沈む月の裏の顔をあばき
青い砂や石をどこへ運び去ったの
忘られぬ人が銃で撃たれ倒れ
みんな泣いたあとで誰を忘れ去ったの

飛行船が赤く空に燃え上がって
のどかだった空はあれが最後だったの
地球上に人があふれだして
海の先の先へこぼれ落ちてしまうの

今 あなたに Good-Night
ただ あなたに Good-Bye

暑い国の象や広い海の鯨
滅びゆくかどうか誰が調べるの
原子力と水と石油達の為に
私達は何をしてあげられるの

薬漬けにされて治るあてをなくし
痩せた体合わせどんな恋をしているの
地球上のサンソ、チッソ、フロンガスは
森の花の園にどんな風を送ってるの

今 あなたに Good-Night
ただ あなたに Good-Bye

機関銃の弾を体中に巻いて
ケモノ達の中で誰に手紙を書いてるの
眠りかけた男たちの夢の外で
目覚めかけた女達は何を夢見るの

親の愛を知らぬ子供達の歌を
声のしない歌を誰が聞いてくれるの
世界中の国の人と愛と金が

入り乱れていつか混ざりあえるの

今 あなたに Good-Night
ただ あなたに Good-Bye

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2008年4月29日 (火)

『 山下 』

『あっ!!ヤマシタだぁー!!』

正面、およそ二十メートル先から、その巨大な体躯をした柔道家がこちらに向かって歩いてくる。
紺色のブレザーに、グレーのスラックス。赤っぽいネクタイをしていたのではないか。
なにしろ三十年程前のことなので、その後のイメージが徐々に刷り込まれているのかもしれない。

僕は父親の友人のおじさんと後楽園遊園地の外側の道を水道橋駅に向かって歩いていた。
僕はそのおじさんと彼の子供達と後楽園遊園地で遊んだ後なのかもしれない。
その日かどうかは覚えていないが、彼らと遊園地で遊んだことは確かだ。

ただ、その日の記憶は僕と柔道家の『山下泰裕』選手と、僕の隣にいたおじさんの三人だけだ。
黄砂の中を歩くような、霞んだ風景がくっきりと鮮明に残っている。

僕は小学校五年生の春から近所の警察署で開かれていた少年柔道場に通いはじめた。
1976年、モントリオールオリンピックの年だ。

近所の五つの小学校と二つの中学校から三十人も集まっていただろうか。
週に二回の練習だったが、僕はそこそこ力をつけていき、二年目の正月の鏡開き大会では、三人勝ち抜き、一人と引き分けの成績で、見事優勝。
柔道が楽しくて仕方なかった。

モントリオール五輪大会では、重量級では「無差別級」で上村春樹選手が金メダル。
「93kg超級」では『山下』選手と名勝負を繰り広げた遠藤純男選手が銅メダルだった。

この時、山下泰裕選手19歳。
この後、事実上の日本一を決める『天皇杯』(全日本柔道選手権)9連覇、『嘉納治五郎杯』優勝、2回。
国外でも、世界選手権優勝2回、金メダル3個。
と、国内外で無敵無敗で勝ち続けていった。(結果203連勝で引退、凄い!:7引き分けを挟む)

1980年、モスクワオリンピック。
絶頂期の『山下』選手は金メダルを獲ることができなかった。
なぜなら、その頃旧ソ連のアフガン侵攻を抗議する政府にJOCはオリンピックをボイコット。
つまり日本人選手の参加出場は許されなかったからだ。

僕はずっと『山下』選手が好きだった。
一本をとって勝つ、強さ。
柔道着の袖口が広く、正々堂々とした試合への真摯な姿勢。
後年、更なる宿敵、斉藤仁選手との激闘。

そしてとうとう1984年ロスアンゼルス大会での、肉離れで脚を引きずりながらの決勝進出、優勝。
念願の金メダル。

そんな憧れの巨人を前にして、僕は多分小学六年生くらいだったと思うが?

『あっ!!ヤマシタだぁー!!』と呼び捨てに言ってしまったのだ。
隣に歩く父親の友人であるおじさんは、眼鏡の奥のつぶらな瞳を更に円くして
『ヘェ?』と僕の顔を覗き込んだ。
(この頃はまだ世界的に有名になっていなかった時代なので)

僕は『あ、あのぉ、ジュ、柔道の・・・』
と少し興奮して言った。
そして、それでもなお、素っ頓狂な顔をしたおじさんを見て気がついた。

実はそのおじさんの名前も
『ヤマシタ』さんだったのだ。

僕はその気まずさを隠すように

『あのうっ、柔道選手の、ヤマシタが、、、』

と言い直して、、、

すると今度は、横を通り過ぎる大男が、小学生の子供に自分が呼び捨てにされたことを
(面白くない!!)
とでも、思っているようなしかめっ面で歩いており、、、

憧れの柔道家に悪い印象を持たれたと思い込むのと、同性のおじさんが横にいたことのばつの悪さを感じながら、

僕は柔道家、『山下泰裕』との出会いにとても興奮していた。


                     (了)

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