家族

2010年11月17日 (水)

『 甘い遺伝子 』 2/2

僕の家でも小さい頃から『おはぎ』は手作りだった。

あの小豆を煮ている時の香りったらない。
『ぐつぐつぐつ……』から、『コトコトコト……』と変わる鍋音。

大胆な砂糖使いと、絶妙な塩加減で甘みがぐっと際立つのだ。
もちろんつぶ餡のおはぎだ。

うちのは、あんこである餅部分も、皮である餡もたっぷりのボリュームで、最後に作った一個だけが小さかったり、餡がかすれて中が見えちゃったりしていたが、それはご愛嬌である。

綺麗な小豆色の餡をがぶりとやれば、中から真っ白のもち米が現れる。
大きいといっても、僕はそれを一回で3個は食べた。
4個食べる時もあったか。
もちろん砂糖なんかは掛けはしないけどね。

母も作る時は沢山作るので、仏壇にお供えする分と、すぐに食べる分用の大きい丸皿とその他に、赤く丸いタッパ(ウェア)にぎゅうぎゅうに詰めておいてあった。
この赤いタッパは、やはり僕の好物の一つである自家製おいなりさんの時にも活躍した。
赤色はフェラーリのように赤く、半透明の丸い蓋は随分と使い古されてくたくたになっていた。

北海道からおじいちゃんがやって来た時にも何度か『おはぎ』を作ってはもてなしている。
この時母が、
『おじいちゃん、お砂糖をかけますか。』
なんて洒落で訊いたりしていた。
すると、おじいちゃんは、ニコニコしながら、
『いやいや、まぁ、これはこれで、……』
と美味しそうにやはり三つくらいペロリとやっていた。

今回、おばさんが、「『そんな失礼なことをしたのぉ。』といって目をキッとさせた」ことでで思ったのだけど、おじいちゃんはその時、
『その件はもう勘弁して頂戴。ばあさんにこっぴどく叱られたんだから……』というバツの悪さをかくす為にニコニコと照れ笑いしていたのではないか。


おばさんが続けて話す。
おばさんのご主人が、おばさんを貰いに(昔だとこういう表現になるかな)、おじいちゃんおばあちゃんのところに挨拶に来たときの話だそうだ。

おじさんは会津出身の酪農家で、確かカナダとかで良い乳牛の育て方や大規模経営なんかを勉強してきた人だ。
おばさんは昔話を語るように静かに話しはじめる。
『白く丸い皿にね、おばあちゃんが作ったおはぎをね、……』
『ぽん、ぽん、ぽん、ぽん。(ぽん)って、五つ並べてあるの。』
おばさんはテーブルの上で、『おはぎ』をサイコロの五の目のように並べ置く仕草をした。

おばあちゃんのもてなしである。
昔はおもてなしといえば『おはぎ』だったのだろうか。
北海道だからなのか、それともおじいちゃんおばあちゃんの家だけの話しか。

『それを見てね、(主人は)あぁ、この女はあんこを作るのを見て育ったんだ、あんこを煮ることができる女なんだなぁ、って安心したんだってぇ。』
とこれまた叙情的なイントネーションで話をまとめる。
ご主人も大の甘党だったのである。

『あんこを煮ることができるから結婚してやったんだよ。』というニュアンスの冗談がこめられているのだと思う。
おじさんの眼鏡の奥のぱっちりしたつぶらな瞳がいたずらっぽく微笑んでいたにちがいない。

なんとも、甘い話だなぁと思った。

しばらく食べていない母の『おはぎ』が食べたくなった。

               (了)

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2010年11月14日 (日)

『 甘い遺伝子 』 1/2

近頃、『甘いもの』というとケーキ、チョコ、ドーナッツなど洋菓子の勢力が強いような気がする。
まず、種類が多いし、店舗も多い感じ。

洋菓子職人のことを『パティシエ』、チョコレート職人のことを『チョコラティエ』なんてコジャレた呼び方をして、マスコミなんかも取り上げたりしている。

デパ地下なんかに赴けば、もちろん昔ながらの羊羹屋さんや煎餅屋さんも軒を連ねているけれど(地下なのにね)、こう思い出してみても、和菓子、特に甘味ってのは、大きな店舗や有名な店舗が総じて少ない。

もともと間食はしない方だけど、家でたまに買ってくるのは、シュークリームやプリンだし、
アルコールを飲んだ後の締めに食べるのは、ケーキとかパフェだったりと自分でも洋菓子に傾倒している。

和菓子で食べるのは、1位『たいやき』。2位『だんご(あんころ餅とみたらしが同率)。3位『(温泉)まんじゅう』だろうか。
といっても、積極的に食べるのは、町歩きで見かけた『たいやき』だけ。
『だんご』や『まんじゅう』はいただきものがあった時くらい。

『羊羹』とか『大福』は昔からするとほとんど食べなくなった。
というか、昔はよく『あんこもの』を食べたもんだ。


北海道の叔母が久しぶりに東京へやって来た。
僕はなんだか、そんな気がしたので、『甘いもの』、しかも『あんこもの』をと、どら焼きの皮を裏返して包んだ『虎巻』と『最中』のセットを手土産に持っていった。(『追分だんご本舗』http://www.oiwakedango.co.jp/shop/)

僕の遠い記憶による勘が当たったのか、同じ遺伝子を持つ必然なのか喜んでいただけだ。


『甘い遺伝子』は父方のおじいちゃんの逸話に象徴される。

北海道は小豆の名産地である。
おばあちゃんはきっと、よく『おはぎ』を作ったのだろう。

その『おはぎ』を、おじいちゃんは朝食に、昼の手弁当に、そして晩食にと食事代わりに三食だされても喜んで食べた人なんだそうだ。
おそらく目を『へ』の字にしてにこやかにね。

もちろん『甘いもの好き』なことは、僕だっておじいちゃんの『甘いもの』を食べるところを見ているから良く知っているけどね。

そんなおじいちゃんが、僕の父母(ちちはは)を驚かせる事件が起こった。

その日もおばあちゃんの『手作りおはぎ』がもてなされていた。
きっと遠路東京からやって来た母のために、いや、可愛い息子である父のためかもしれない。

で、この時のおじいちゃんである。
何を思ったのだろうか。
味見をしての結果だったのか。
なんと、なんとである。
出されたおばあちゃんの『手作りおはぎ』のその上に、俄にか、やおらになのか、砂糖をたっぷり山盛りに掛けて食べ始めたのだそうだ。

おばさんはその話しを聞くと
『そんな失礼なことしたのぉ。』
と目をキッとさせて、北海道独特の抑揚で言った。

確かにそうなんだけど、余りの大胆な行動に父も母もそれくらい『甘いもの好きな人』の逸話として笑っていたのだと思う。
でも、当のおばあちゃんはどう思っていたのだろう。

自分の作った『おはぎ』の白い砂糖の山を削りながら食べるおじいちゃんを見て、目をキッとさせていたのではないだろか。

               (つづく)

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2009年11月 5日 (木)

『 ココロのカタチ 』

昭和40年代の話しです。


二つ違いの仲良し姉妹のお姉ちゃん、カナちゃんと妹のメグちゃんは、
いつもおそろいのお洋服を着て、どこへ行くのにも一緒にお出かけをしていました。

おとなしいお姉ちゃんのカナちゃんは、お稽古事のピアノもお習字も、黙々とこなし、宿題などは必ず終わらせてから遊びに行く、堅実な性格の女の子でした。

それに対して妹のメグちゃんの方は、まずは自分の遊びたい遊びをして、さて、もう時間がないというところで、ピアノの課題曲をマスターしたり、宿題を終わらせるという要領の良さと行動力を併せ持つ活発な女の子でした。

これは『蟻とキリギリス』や『ウサギと亀』のようなお伽話ではありません。


そんな二人でしたが、お姉ちゃんのカナちゃんはショートヘアー。
メグちゃんの方は、長い髪を『三つ編み』にしたり、『ポニーテール』にしたりと変幻自在のヘアスタイルを楽しんでおりました。

メグちゃんは、クリクリしたぱっちりお眼々で、また末の娘(むすめ)という事もあり、彼女の人懐っこい性格が相まって、周りの人から随分とちやほやされていました。

お姉ちゃんのカナちゃんも姉妹良く似た可愛らしい顔をしていましたが、どこか大人びた表情で、おすまし屋さんの印象の強い女の子でした。


二人に遊び道具の取り合いや、物事の順番をめぐった争いが始まると、

『お姉ちゃんなんだから、…』

というセリフでカナちゃんはいつも我慢をする役をはたしてきました。

小学生の小さな女の子に刻み込まれた一つ一つの体験は、彼女のハートをどんなに揺るがしていたことでしょうか。


時は経ち、姉妹が中学校に上がってからのこと。
家族で懐かしいスナップ写真のアルバムを開いていました。
すると、一枚の写真に皆が異和感を覚えました。

それはカナちゃんが一人で写っている写真でした。

太陽がまぶしいのもあったのでしょう。
カナちゃんは珍しく眉間に皺を寄せて、上目遣いにカメラを睨みつけていました。

子どもらしい愛くるしい表情です。
が、しかしです。
この一枚の写真には嘘がありました。

カナちゃんの髪には、無いはずの『三つ編み』が不自然な姿でお下げになっていたのです。

カナちゃんは幼心に、どうしてもメグちゃんと同じように『三つ編み』を結いたかったのでしょう。
そして皆にちやほやされたいという一つの『憧れ』の象徴だったのかもしれません。
それを我慢していた心がいつの日か、油性『マジックペン』で写真に描き込むというカタチで表れてしまったのです。

おとなしい娘(こ)だったので、まさかカナちゃんがそんな風に思っていたとは、お母さんは露ほども感じていなかったそうです。

そして当のカナちゃんは、写真に自分で『三つ編み』を描き込んだことを覚えていませんでした。


それから30年以上経った現在、カナちゃんも二つ違いの姉弟を持つ二児の母です。
彼女の子供達の言葉にできない心の声が、はたしてどれくらい聞こえているのでしょうか。

まさか末の男の子の写真に『三つ編み』が描かれるなんてことは……。

               (了)               

※ この話しは、事実に基づいて書かれたフィクションです。

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2008年4月25日 (金)

ずぶぬれ ー2ー

おバァちゃんは、僕の腕を捕った。

肩から下は合羽を着ているが、白髪まじりの頭は
ぺったりと張り付いていた。
ホントにずぶぬれだった。


5メーターも歩いただろうか?

おバァちゃんは言う。

「そこだから、あそこだから」
細く濡れた声で言う。

おそらく、そこの古いアパートだとは分かっている。
黒光りした板の廊下が目の当たりにできる。

ベージュのスーツを着たOL風の女性が、お巡りさんを連れてきた。

僕らは五人で、すぐそこまでなのに、
脱水症状のランナーを伴走するかのように。
僕らは、歩いている。

おバァさんのキャリーカートはとてつもなく重かった。

おバぁさんは、僕の腕を頼っている。
僕はおバぁさんの手を握り返した。

若く、親切なお巡りさんが僕らに傘をさしてくれたのは良かったが、
僕も、おバぁさんも、たっぷり濡れるはめになった。

高々、二十メーターも無い距離だったけど、
僕らは、20分近く掛けて、歩いた。

歩いた。

東京には、おそらく東京だけでなく、
こうしたおバぁさんは、たくさんいるのだと思う。

珍しく、僕らは老後を語った。

人生とは、どれほど長いものなのかと、


                (了)

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ずぶぬれ ー1ー

夕方、雨が堪えきれなくなったようだ。

20:00
近場にラーメンを食べることで、家を出た。

駅近くのラーメン屋は、つまみ(肴)も無さそうな、
単なるラーメン屋さんだった。

なので、そこで食べるのはよしにした。

もう一軒、前にみた時、もうちょっといろいろおつまみがあったようなラーメン屋さんに行ってみることにした。

とりあえずの、ビニール傘がしとしとと濡れていた。

「××庵」
の看板、屋根シート。

しかし、木曜日の午後8時、店内に光りはおろか、カウンター用のスタンドチェアーすら見ることは無かった。
閉店してしまったのだろう。


その店の辻、振り返る前、お婆さんがずぶぬれで、立ちすくんでいた。

僕も家内も、振り返ろうとした。
そのままにして、

「はっ!」とした。

そして、おばあさんに声をかけた。
家内の優しさの方が早かったんだけどね。

「おバァちゃん、どうしたの?」
僕が語りかけた。

「うん、腰が痛くって」(歩けないでいる)
「合羽は?」
「うん、持ってるんだけど、どこか言っちゃって、見つからなくって」
「.....」

「何時頃、家をでたのぉ」
「三時頃』

時は、午後八時。
それくらい、歩く時間が長いのだ。

僕らは思った。
この歩きで、商店街の「行って来い」は、何時間かかるんだろうか?


              (つづく)


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2008年2月29日 (金)

『宝もの』 - 5 -

そんなことで、姪も甥も、一緒に泊まる時は
《みのる遊園地》をせがむようになった。

一番最初にかなり長時間開演してしまったので、子供達はそれを、
それ以上のアトラクションを求めてくる。

夕食後のそれはある種の恐怖感を覚えさせる。
自分で開いた遊園地なので、その責任は取らねばならないのだが、、、

その日も、食後、
『お腹いっぱいだから、まだ駄目』
と言ってもらい、

その後も、
『花火をした後ね』
と引き延ばし、

「ミノルボール」で転がり始めると
『もう寝る時間だから、よしなさい。』
と言われるまでの、小一時間だけの開演で済まさせてもらった。

それでも彼らと一緒に丸くなり民宿の畳の上を転がり、
その喜びの悲鳴を聞いているとついついその時を忘れる。

しかし、疲れた。
昼の海で体力を消耗したとはいえ、僕の年齢からくる衰えも否めない。
が、またそれ以上に姪と甥の成長のスピードが速い。
たかだか、半年前なのだが、今の彼らとでは、同じようにゴロゴロ転がっても、高く持ち上げても、
ぶる下がられても、その消耗の度合いが随分と違う。
こうした力技を多用する《みのる遊園地》のアトラクションが、いつまで運営できるのだろうか。

         ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

少し沖に出る。
色濃い海の碧色が自然の揺らぎをおこしている。

『〜 ぷかり 〜 ぷかり 〜 』

キラキラとお陽様の照り返す水面に、半透明のオレンジ色、直径120㎝のキティちゃん柄の浮き輪が浮かぶ。
両腕を前に投げ出し、腹這いになった僕に浮き輪を巻いた姪がおぶさっている。

陽に灼けた僕の首の付け根、肩と肩の真ん中に、自分の顎をあて、僕の肩のコブ、お神輿でできたコブを指でつつく。

波のしずくが滴るのを、キラリ、夏の太陽が追いかける。
その時、姪が言った。

『これ、ミノル君のタカラモノが入っているんだよね。』

僕は七歳の姪に言い当てられたことに、またその言葉に驚き、喜んだ。

そして僕は、僕の『宝もの』のことを想いながら、いましばらく浮かんでいた。


                             (了)

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2008年2月24日 (日)

『宝もの』 - 4 -

砂浜から戻り、シャワーの順番を待つ間、部屋の畳の上で
甥と姪は僕を引っ張り
『ごはん食べ終わったら、『みのる遊園地』だよ』
『ミノルユウエンチー!!』
『寝るまで『みのる遊園地』ねぇ』
『え゛えっー、無理だよぉ。疲れちゃうよぉ』
『無理じゃない、無理じゃない!』
『疲れない、疲れない!』
『みのる遊園地!』『ミノルユーエンチー!』
と騒ぎ立て、またお義姉さんやお義母さんに怒られる。

夕食を終えると次なる遊びが待っている。

その年の正月だろうか、その前の年か、

僕の胡座(あぐら)の中に甥の方がちょこんと座った。
手には『DS』というゲームを持っている。
僕が後からギュウッとハグ(hug)したら、その両腕を邪魔にした。
目はゲーム機に釘づけだった。
もう一度、ギュッとやると
『キャッ、キャッ』と頬がゆるむ。
さらに、ギュウっとやると
『ヤメてよぉー!ハハッ』と抵抗した。

子供の肌というのは柔らかくて、すべすべだ。
僕は彼の身体を僕の身体で包んで、小さく丸めた。
さらに僕自身も丸くなり僕らは合体した。
甥を包み込んだまま居間のカーペットの上を転がり始めた。

『ゴロン、ゴローン』
『イヤァー!イヤァー!ハハッ!ハァーッ、ハハハッ』

甥は楽しくなってきて、姪も楽しそうに見ていたが、とうとう
『私も、私も!』
と近づいてきたので、
今度は姪を抱えて、さらにその中に甥を包み込んで、二人いっぺんに丸めて、
僕の両手両脚を絡み付け、僕らは丸くなった。

そしてまた、僕はカーペットの上を縦横無尽に転がり回る。

『ゴローン、ゴローン』

アトラクション『ミノルボール』の誕生だった。

休み休みだが30分は転がり続けたと思う。
この他にも僕はいくつかのアトラクションを考えだし、新年早々大汗をかいた。
そして彼らはなかなか遊園地を閉めさせてくれなかった。


                   (つづく)

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2008年2月19日 (火)

『宝もの』 - 3 -

僕はお祭りが好きで、生まれ育った地元ではお神輿を担ぐ。

小学校に上がると、町内会の子供で唯一、半纏を買ってもらい、それを着てお神輿を担いでいた。
高学年になるとこれまた僕一人が、お祭りの時にたたく太鼓の稽古に参加していた。
お祭りが近くなると聞こえてくる太鼓や笛の音にどうにもじっとしていられない。
『血が騒ぐ』とはこういうことだろう。
根っからのお祭り好きなのだ。

僕の育った街は江戸時代、(旧)東海道沿いの宿場町、漁師町で、
当時の繁栄は浮世絵や映画にも表されている。

お祭りは江戸初期にはじまり、「大漁豊作」「家内安全」「商売繁盛」を祈念するもので、
年に一度、山車やお神輿が町内を巡行、渡御をする。
四百余年を経た現在でも老若男女、この土地の人々を中心に盛大にとり行われる。

中でも、お神輿は僕ら男達の、力強さや、勇気の象徴のように僕は感じていた。
お神輿の形や色で、その格好の良さを語り、
また担いで感じるその重さは、神様の御霊(みたま)を地面に落としては行けないという己の誇りが、肩、腰、脚の力や忍耐力をつけていく。

お神輿を力強く担げるものが「強い男」なんだと思っていた。

そしてそうした男達の肩には、まあるく(丸く)、こんもりとしたコブが付いていた。
彼らは楽しげに、重さなど『へいちゃら』の余裕の表情でお神輿を担いでいた。
僕はそれを小さい頃から、憧れにも似た眼差しで眺めていたと思う。

しかし、若い頃にはどんなに担いでも僕に、そのコブはできなかった。
それが三十路を越えて、代謝が悪くなったのか、体質が変わったのか、
お神輿を担ぐ僕の肩にもそのコブができるようになった。
(なくなることはないから、「できた」か)

まあるく(丸く)、こんもりと、

それはなんだか、思春期にヒゲが生えはじめた頃の喜びに似ていた。

大きくなりすぎた、そのコブを手術して取ってしまう人もいるが、
僕のは可愛い大きさだし、手術などする必要もそんな気も毛頭ない。

僕はちょいちょいそのコブをさすったり、つまんだりして愛でている。


                   (つづく)

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2008年2月14日 (木)

『宝もの』 - 2 -

この夏、彼女と目一杯楽しんだ遊びがある。

『波乗り』だ。

姪はスイミングスクールに通ってはいるが、海は全然別物なので浮き輪をつける。
僕は海は好きだけれど、泳ぎは苦手なので浮き輪をつける。

初めはぷかぷか浮いていたり、バシャバシャ進んだりしていた。
浮き輪は楽チンなので、好きだ。

その日は低気圧のせいか、前日まで天候も悪く気温も上がっていなかった。
そして、少し波が立っていた。

僕は浮き輪で腹這いになり、その上、僕の背中(腰のあたり)に跨(また)がせた。
もちろん浮き輪は着けている。

初めはバランスをとりながら、
『ウワァー!』とか『キャァー!』とか声をあげて、びくびくしていたが、
要領を得るとまさに、水を得た魚。
亀に乗る浦島太郎の体だ。

僕は浮き輪をボディボードに見立て、左右後方からくる波のタイミングに合わせ、手足をばたつかせる。
が、なかなか上手く乗れない。
10回か20回に一度くらい乗れただろうか?
波を待ち、タイミングが合わず、乗り越した波を数えれば、かなりの数だ。

時に大きすぎる波に呑込まれ、転覆したことも幾度。
姪は涙目で笑いながら、
『もう一回!』と。
僕は肩に裂傷を負いながら、また波を待った。

僕は疲れると、少し沖に出て、体勢を逆にして、天を仰ぎ、
今度は姪を腹に乗せ、ぷかりぷかり。
僕は窮屈になるとまた腹這いになったりと、

どちらにしても、太陽は僕ら、海にいるものをジリジリと灼き焦がす。


              (つづく)


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2008年2月 9日 (土)

『宝もの』 - 1 -

『これ、ミノル君のタカラモノが入っているんだよね。』
小学校一年生になった姪が言った。


僕には35年と37年下に姪と甥がいる。
彼らは僕の名前に『くん』を付けて呼ぶ。
『みのるおじちゃん』とは呼ばない。

この二、三年、彼らは言葉も足許も大人と対等に渡り合えるようになってきていた。

去年の夏休み、義姉さん家族とお義母さんと6人で二泊三日の海水浴の旅行をした。

列車からバスに乗り継ぎ、海岸に最寄りのバス停で降りる。
僕らは皆、手を繋ぎながら、バス通りから夏の坂道を下りていく。
まもなくすると見下ろすように海が広がった。

太平洋のやや北側、海は青く砂浜は白い。

アスファルトに白い砂がこすれる音。
子供達の躍る心が軽やかなステップとなって表れる。
陽差しに肌がジリジリする。

僕らは宿に着くと、子供達はもう既に着替えていた、と思うくらいに速い仕度だった。
甥は興奮して、目を寄り目にして、手足をばたつかせて、
大きな口を開け、「ウワァー!ウワァー!」
と気が変な振りをして、
彼のお母さんに怒られ、お婆ちゃんに「嫌ぁねぇ〜」
と言われ、僕は楽しく眺めていた。

しかし海に入ると絶好調になるのは、お姉ちゃんである姪の方だ。
甥の方はまだ波が怖いのと、現時点では身体を使う遊びより、
虫取り、魚獲り、カニ、ヤドカリ採りといった採集、観察に夢中で
「末は博士だ」と僕に言わしめる行動が好きだ。

姪は活発だ。
海から、『あがろう』とか『あがんなさい!』とか言っても
唇が真っ青になっていても、なかなかあがりたくないという感情が顔に表れる。
でもとても良い子なので
『じゃぁ、あと一回だけ』
と言って、観念する。

そういう子だ。

              (つづく)

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