自然

2012年1月27日 (金)

『 古い携帯電話 』 ー 3 ー

二年半程前の話しだが、東京大学地震予知連絡会もお役所も国も、テレビの前だけは反省した顔を見せているけれど、昨年の大震災を考えると、その時に本当に事の大きさを考えたのかと言えば、恐らく『NO』だろう。

役所や国は特にね。
それにしても学者達はそれでいいのか。
何の為に東大へ行っているんだ、と思う。

二年半前に僕が思った事、
『人間の『英知』と言われるような力や技術は、……』のくだり。

『自然の猛威を奮われる前に、
『見直すべき』と気付く為に、発揮され……。
またそういう時期になって……。』

僕のような素人ですら感じていた自然の驚異や、人間の奢りを、プロである学者達はどう考えていたのか。
次の大地震、それは僕が小さい頃から怯えていた東海、東南海大地震。
更に言うなら、富士山の噴火のような大災害に繋がるような時に極力堪えうる環境を作り出して欲しいものだ。
って、そこまでは無理な話しなのだろうか。
また求めてはいけないのだろうか。


なんて書いていたら、昨日(1/23)のニュースで首都直下型大地震のシュミレーション映像を等が流れ、東北大震災以来状況が変わり、四年以内に首都直下型大地震(マグニチュード7以上)が起こる可能性が70%になったと言う。
(それまでは30年以内だったのにね)

そのシュミレーション映像は恐怖心を煽り、僕らが何をすればイイのかは映し出されていない。
家が倒壊し、火事が起こり逃げ惑う人々。

そうした映像を見せられて、僕らは何を用意すれば良いのか。
明日起こるかもしれない大地震に備えて僕らは何をするのか。


東北大震災は、地震や津波といった自然の力が、科学者達の想定を越えてしまったこと。
原発事故については、果たして安全だったのか、今後安全なのかを疑わせる実体隠しによる不信感によって、事態をヒステリックとさえ思わせる状況にしてしまっている。

だから科学者は、もっともっと安全性の高いものを追求することを求められているのだと思う。

僕は、自然にも国で決めたことにも抗えるだけの力は持ち合わせていないから、この国をリードする政治家や役人や学者さん(科学者)達には、現時点での優先順位は何なのかを、しっかりと考えて、取り組んで欲しい。
日本国民に、延いては世界中の人にとっても安全で安心できる策を練って、実行してほしいものだ。

なんて、古い携帯電話の復活がこんな話しになるとは考えもしなかった。

去年の震災後、強く感じていた、『今そこにある恐怖と不安』も今では薄れ始め、あの日、来ぬバスを待って恐ろしく寒かった4時間のことなども流れる時によってどんどん希薄になっていった。

あれからまた寒い冬を向かえた東北の被災地の方々は、いまだ自分の家も仕事もなく大震災を体感し続けている。


僕らは学者ではないにしても、この震災から忘れてはならないことが沢山あり、つまりはつねに過去の教訓を思い起こして、後世に残すべき物や事(借金ではなく)を真剣に考えて、前に進んでいかなくてはならない。

わざわざ古い携帯電話を使い直す必要はないけどね。

               (了)

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2012年1月23日 (月)

『 古い携帯電話 』 ー 2 ー

「『自然』① 2009/08/27

『自然に対しては謙虚であるべき…』

*** *** *** *** *** *** *** *** *** ***

もうじき陽が昇るかという朝ぼらけ、
久しぶりに少し大きめの揺れがあった。
直ぐさまテレビを点ける僕は、その震源地に
『ヤバイッ』
と思った。
僕らが少年時代からその恐怖心を胸に抱いてきた『東海大地震』かと思ったからだ。
静岡県中央部で震度『6弱』を観測した。

翌週にも伊豆諸島近海を震源にした地震が起きたのだが、
東京大学地震予知連絡会の某氏が最初の地震の後、その震源地と『東海大地震』の関連性をきかれ、
震源の深さやマグニチュードの大きさから
『関連性は無し』と応えた後に冒頭の言葉を言ったのだ。


『自然』②

自分達は科学者ではあるが、それに奢ってはいけないという自戒の念が込められた言葉なのだと思う。


実際ここにきて、自然は、人間が築いてきた生活や人生までも、豪雨、鉄砲水などでひと飲みにしてしまっている。

日本というと今まで、自然との共生とか調和を大事にしてきたお国柄だと思っていたが、
文明が進んだことでなのか、地球のバイオリズムなのか、随分こっぴどくやられてしまっている。

人間の『英知』と言われるような力や技術は、
これから先の未来にのみ発揮されるのではなく、
今までは平気に過ごしてきたようなところを、
自然の猛威を奮われる前に、
『見直すべき』と気付く為に、発揮されても良いのではないだろうか。

またそういう時期になっているのだと思う。

『自然』③

新築の家でもマンションでも何年か経ったら補修、修繕等のメンテナンスが必要なわけで、
人間の築き上げてきた文明もそろそろガタがきているのだろう。

宇宙サイズで考えれば、
今の地球で起きている異常(気象)等は
地球からしたら、風邪をひいた程度かもしれず、
大層に……」


で終わっていた。

               (つづく)

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2012年1月18日 (水)

『 古い携帯電話 』 ー 1 ー

使っていた携帯(電話)が壊れて、暫くそのまま携帯のない生活をしていた。

初めはつね日頃持ち歩くものが手元からなくなったことで、多少の異和感があった。
けれど、会社から持たされている業務用端末機(携帯電話)があったのと、通信に関しては普段、家族と連絡をとる程度にしか使わないので、なんとかなるもんだと思った。

僕が携帯で一番使うのはメール機能で、これで自分の思いつきやら駄文やらを記録しているのだけれど、それができないのがちょっと淋しいくらいか。

現行の携帯電話で、気に入ったものがなかったから、次のを買わないでいたのもある。

がある日、知人(先輩)からの連絡に気付かずに応えないでいたら、直接会った時に指摘を受けた。
懇意にしてもらっている先輩からだったので、これはなんとかせねばと思うようになった。


新たな携帯を探すのに、僕自身はメールとカメラさえあれば十分と思っているのだが、スマートフォンの登場でなんだか悩まされてるところもある。

家でパソコンは弄るが、外では必要ないかとも思ったりして。
でもまぁ、いざという時、便利だったり、情報が豊富になるだろうことは想像がつく。
重いとか、持ちづらいとか流行っているから厭、っていうのもある。

いい歳をして、電車の中で、ゲームなんかしているオッサンは見苦しい。
こうなると、頭の固いガンコ親父だ。
でも、迷っているんだから、単なる優柔不断か。

そんなこんなで二週間ほど経った頃にその指摘が入ったのだ。
人間、切羽詰まると知恵なるものも湧いてくるものだ。

僕は自分が以前に使っていた携帯を、壊れてから換えたのではないことを思い出した。
そして、壊れた携帯からFOMAカードを以前のものに差し替えた。
充電器で電源をとり、『PWR』をONに。
なんとも、懐かしい画像が現れた。

復活である。

電話帳もみんなに残っていたので、すぐに使うことができた。
久しぶりにいろいろと弄って暫く懐かしんでいたのだが、やっぱり使用感が全く違う。

手にフィット感がない。
正反対に異和感がたっぷりだ。
厚みがあって丸みもある。
重そうだけどスマートフォンよりは軽い。

当時は随分と愛着をもって使っていたのになぁ、と思う。

この文章も今日(11月中旬)で三日目になるこの携帯で書いているのだけど、電車内で取り出すのにはちょっとした抵抗感がある。
対角線で二倍、実質四倍はあろうかという画面の大きさを誇るスマホ全盛の時代にはちょっと野暮ったいかもな、と。

DOCOMO SH901iS
だ。

僕はなんの気なしに保存してあった未発信のメールのフォルダを開いた。
いくつかある中に、『自然』という題名が3つ並んでいた。
2009年08月27日の日付となっていた。

               (つづく)

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2011年4月 1日 (金)

『 小僧さん 』

昔々から、町という町、村という村に小僧さんは現れる。

晴れの日。
お爺さんもお母さんもほがらかでいると一緒になってほがらかでいたり、
おなかが空いたと泣いてみたりする。

晴れの日が、続いて続いて地面がわれれば、泣いた涙で地面を濡らす。


雨降る日。
お婆さんもお父さんも憂鬱な顔をしていても、黄色い傘に雨合羽。
ザーバラ、ザーバラ、ザーバラと、降る雨蹴って歩いてく。

あんまり雨が降り続き、山が崩れてきそうになれば、地面を蹴って固めてくれる。


冬には雪かき手伝って、大きなだるまを作ってみたり、
カミナリが轟けば、網のかわりにイナヅマ持って、虫採りに出かける。

小僧さんはマイクロフォンを握れば歌ってくれるし、音楽が流れれば踊りだす。
小僧さんはフライパンも振れば、包丁も引くし、お皿が並べば箸を突く。

もちろん、海が干上がったって、地面が灰だらけになったって、小僧さんなら魚を蘇らせられるし、花を咲かすことだってできる。

軽やかな風のように微笑みを送りながらね。

それが小僧さんさ。
あぁ、小僧さんがいてくれて良かった。

僕らはいつだって、小僧さんと一緒だけどね。

               (了)

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2009年9月 9日 (水)

『 自 然 』

『自然に対しては謙虚であるべき…』


『グラリッ!!』

もうじき陽が昇るかという朝方、久しぶりに少し大きめの揺れに襲われた。
すぐさまテレビを点ける僕は、その震源地に

『やばいっ!』
と思った。

僕らが少年時代から恐怖心を胸に抱いてきた

東海大地震

かと思ったからだ。

『静岡県中央部で震度『6弱』を観測した。
(翌週にも伊豆諸島近海を震源にした地震が起きたのだが、)

東京大学地震予知連絡会だったと思う某氏が、最初の地震の後、その震源地と『東海大地震』との関連性を訊かれ、震源の深さやマグニチュードの規模から、

『関連性は無し』

と応えた後に冒頭の言葉を述べたのだ。

自分達は科学者ではあるが、それに奢ってはいけないという自戒の念が込められていたのだと思う。


実際ここにきて、『自然』は、人間が築いてきた生活や人生までも、豪雨、鉄砲水、崖崩れなどで、ひと飲みにしてしまっている。


日本というといままで、『自然』との共生とか調和を大事にしてきたお国柄だと思っていた。
だから、もっと上手くやっていけるのではなんて思っていた。

文明が進んだことでなのか、地球のバイオリズムなのか、随分とこっぴどくやられてしまっている。

人間の『英知』と言われるような力や技術は、これから先の未来の、生産性の高いものにのみ発揮されるのではなく、
今までは平気に過ごしてきたようなところを、自然の猛威をふるわれる前に、『見直すべき』と気付く為に発揮されても良いのではないか。

きっとそういう時期がきている。

新築の家でもマンションでも、何年か経ったら補修、修繕等のメンテナンスが必要だし、人間でもそうだ。
病院に行って定期検診などを受けてみなければ、わからないことなどもある。

人間の築き上げてきた文明もそろそろガタがきているのだろう。


今、住んでいるところで、大丈夫だと安心していたところでもそこは危険であると、気付くようなシステムの開発が必要なのだと思う。


『自然』をなめてはいけない。
僕らは『自然』の中で生かしていただいているということだ。


               (了)

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