時代

2014年8月22日 (金)

『 禁断の飲み物 』 -後編-

薄く麻っぽい生地のグレーのワンピースを着たおばあちゃん。

白地に紺色とクロームメッキの取っ手の冷蔵庫。
おそらく250L程度。

ネズミが走り回るお勝手に、ブリキ職人だったおじいさんが手作りしたステンレスの流し、トタンの換気口。
(レンジフードのようにコンロに被さっていた。)
荒神様の札が貼ってあった、油なのか茶色に染まった柱。

70センチ四方のコタツ机を囲む食卓。

夕げの匂い、煮物、カレーライス。

麦茶。(砂糖なし)

****************

口に入れた瞬間、40年前の味が甦ってきた。

そうそう、これこれ。

しかし、直接麦を煮ていないからか、なんか味が足りない。
いや、もちろん味なのだけれど、なにかが違う。

部屋の明るさや匂いが違う。
僕の年齢も違えば、身長も随分と大きくなった。
早く言えばオジサンになっている。
まぁ、何もかも違う。

多くの経験をし、沢山のモノを手にしているのに、それほどモノがなかった当時の味が感じられない。


あの頃の方が、モノが無い代わりに、有り難みや、想像力や、時間があった。

もっとコンパクトな生活だったかもしれないが、心が豊かだったような気がする。


僕が『禁断』と感じたのは、
『砂糖入りの冷たい麦茶』を飲むことで、実は今の自分の心の貧しさが露呈するのをなんとなく感じていたからではないかと思った。


僕はまた、この『禁断の飲み物』を暫く封印しておくことにしようと思った。

     (了)

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2014年8月21日 (木)

『 禁断の飲み物 』 -中編-

何故に今、『禁断』なのかといえば、貧乏ったらしく思えるからだ。


家で作った麦茶に砂糖を入れて、ジュースを飲んでいるかのような贅沢感を味わっていた訳で、
あれから40年もの時が過ぎ、溢れかえるほどの清涼飲料やお茶の類いがあるなか、それを現代に味わってもいいものか、というところだ。

しかし、コレがなんとも微妙に美味しかったんだよなぁ。


今でも、麦茶は沸かしたお湯で点ててはいるけれど、昔のように麦を直接ヤカンで煮だすような贅沢さ(スローライフという意味でね。)はない。


煮出している時の薫りのことを芳醇というのではないか。

またこの方法のほうがコクがあるし、麦の風味や芳ばしさがよく出て間違いなく美味しい。

コーヒーと間違えてしまうくらいに味わいが深い。

そこにナポリのエスプレッソコーヒーよろしく
上白糖をたっぷりと投入。
スプーンでかき回してもなかなか溶けない砂糖粒がグラスの中で何周も何周も回っているのを、「早く溶けてくれー」、とずっと見つめていた。

グラニュー糖ではなく、上白糖というところがまた、貧乏ったらしいんだけどね。

**********   **********   **********

この夏、家に一人でいるでいるときだった。

まさに家には飲み物らしいものが見当たらなかった。
冷蔵庫には麦茶しかない。
たまたま、コーヒーも、野菜ジュースもカルピスも切らしていた。
(ビールはあったかもしれないけど)


僕はいけないと思いながら、母の三面鏡の引き出しを開けるかのような気持ちで、あの『砂糖入りの冷たい麦茶』を飲むことにした。

水だしもできるパック麦茶だが、お湯でたてているので、そこそこ濃い色をしている。
氷の入ったデュラレックス社(フランス製)のグラスに注ぐと瞬く間に表面が結露する。

麦茶に浮かぶ氷山に薄茶色の三温糖を、小さじ一杯を投入し、かき混ぜる。


カリンカリンと涼しい音色を聴かせて、氷と砂糖は冷たい麦茶の中で回りはじめた。
僕は40年前と同じようにその様を見つめ、タイムスリップした感覚に陥り始めた。

               (つづく)

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2014年8月20日 (水)

『 禁断の飲み物 』 -前編-

私はこの夏、とうとう或る飲み物に手を出してしまった。

※※※※※※※※※※※

景気が悪いとか、戻ったとか言うが、ものが溢れていることは、『バブル時代』『飽食の時代』なんてここ2、30年は変わっていない。

飲料品だってその例に洩れない。
全く品数が豊富で、選ぶのに困るなんてのを楽しんだりしている。


私の育った幼い頃、昭和40年代にはそれほど沢山の種類はなかった。


その頃に、とても印象的な夏の飲み物があった。

(時代の変わった今、僕はそれを『禁断の飲み物』と称している。)


それはチョコレートドリンク『ユーフー』でも、『チェリオ』でもない。
『Hi-Cアップル』でもなく、お米屋さんで売っていた『プラッシー』でもない。

お風呂屋さんで飲んだ『パイゲンC』は捨てがたいが、勿論『ラムネ』でも『カルピス』でもない。


それは何かというと、ヤカンで煮だした『麦茶』のことだ。

当時はどこの家でも当たり前に飲まれていた、と思う。

ぐつぐつと泡(あぶく)をたてて煮たっている。
麦の芳ばしい薫りが長屋の幾部屋を漂わす。
暫くおいてから、かねの盥に移し、流水であら熱をとって冷蔵庫で冷す。


カルピスやジュースを飲むときに使う背の高いグラスに氷を入れ、色も濃い麦茶を注ぐ。

そこに実は『上白糖』をたっぷりと混ぜるのである。

『砂糖入りの冷たい麦茶』

おやつの時間か、ティーブレイクのようなタイミングに出して貰ったと思う。

夜に飲んだ印象は薄い。

けれど、我が家の夏には欠かせない飲み物だった。

               (つづく)

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2014年6月26日 (木)

『 真鍮製 - SolidBrass 』

この『散水栓』の蓋を見つけたのがいつだったか。
毎日のように通りすぎる駅のホームに埋め込まれていたのだから。

次第になんだか気になる存在となったのもどれくらい経ってからか、記憶にない。
でもいつかコイツは記録しておきたい、と思ってからは一月くらいで、写メに収めたと思う。

渋く黄金色に輝く真鍮の魅力は、僕をまたしても昭和という時代への懐古趣味的な途へと誘っていくのだった。

Photo_4

今でこそ見かけなくなった真鍮製品だが、こうした日常的な物に使われるくらいだから、過去の日本の生活には必須だったのではないか?

webで調べてみると真鍮は本来『黄銅』ということが分かった。
『黄銅』とは、
『銅:Cu と亜鉛:Zn の合金で、特に亜鉛が20%以上のものをいう。真鍮(しんちゅう)と呼ばれることも多い。』
歴史としては、『適度な強度、展延性を持つ扱いやすい合金として、約350年ほど前から広く利用されるようになった』のだそうだ。

『最も一般的な黄銅は、銅65%、亜鉛35%のもので』

『昔から精密機械や水洗便所の給水管や便器給水スパッド、理化学器械類や鉄道模型等の素材、弾薬の薬莢や金属模型などに広く使用されている。
日本では仏具、多くの金管楽器などに多用されている(金管楽器の別名であるブラス(brass)は黄銅の英名に由来している)。また、2014年現在までに日本で発行されている五円硬貨の素材としても使われている。』(ウィキペディア参照)
と。
あぁ、なるほど、結構現役選手なんだなぁ。

Photo_3

それでも、真鍮の役割は、現在では鉄、更にはステンレススチールにとって変わられているんじゃないか。
ここのところきょろきょろと街で真鍮製品を捜しているのだが、なかなか見つからないのだ。

中学時代、A君と言う同級生がいた。
彼は小学生時代から数千枚というJAZZのアルバムコレクションを誇る年期の入ったJAZZキチガイだった。
中学二年の時、ブラバンに入っていた彼は、セルマー社製のテナーサックスを買った。
彼は憧れのチャーリー・パーカーや、ベン・ウェブスターの曲を演奏してくれた。(チャーリー・パーカーはアルトサックスでしたが。)

浪人時代に、缶ピー(両切りが60本入る、缶入りのショートピース)を吸っていた彼が、真鍮製のZippoライターを見せてきて、
『イイだろう。”solidbrass”。真鍮製って使い込むと味がでるんだよねぇ。』
と『ゴードンジン』を片手に笑っていた。


真鍮製品がイイのは、レトロなものの中でも、その使用感がイイのだと思う。
使い古してきたその人やその街の味だ。

もはや時代での役割を終え、いまだ平成の世に残っているのが、嬉しいってのもあるかもしれない。
まぁ、個人的な趣味であるのは間違いないけどね。


街に潜むレトロな輝きを見つけたら、またパチリとやっていきたい。

               (了)

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2011年5月21日 (土)

『 ヘロくんの管巻き 』(5/21 23:30追加あり)

毎回、楽しく拝聴させていただいております。
『ヘロの管巻き』

太りましたか?
失礼。
オイラのPCの所為でこもっている為でしょうかね、そんな風に聞こえてしまいました。
昔、よく聴いていたラジオのパーソナリティーの女性を初めて見た時、その声とルックスの大きなギャップにがっかりしてしまったなんてことがありましたが、そういうことはないので安心してください。


さて本題。
先日の『色々な死を考える』の回もズバッと、明快に語っていて、ぐずぐずのところはそれはそれで、PCの前で独りクスクスと笑ってしまい、大学受験の浪人時代を思い出せてくれます。

一番目の人の死については、『仕返し』の在り方みたいなことを端的に語っていますよね。
『最初に手を出したのはどっちよ。』っていうのも、
『そうだぁー!』って、声こそあげなかったけど、やはり納得しちゃいました。

『仕返し』の『仕返し』があるだろうことは想像した上での『仕返し』だったのかなんてのも全くその通りと思いましたね。


『肉』のはなしもいちいち頷いて聞いていましたよ。
近頃は小学校に上がる前から、焼き肉だって、寿司、刺身だってなんだって食べちゃう、というか食べさせちゃう。
うちは子どもがいないけど、ある家庭のお嬢さんが、小学六年生だったけど、スーパーで買ってきた大トロっぽいマグロを頬張りながら、
『私は大トロより中トロの方が好き。』
なんて言うところに遭遇して驚きました。

確かに周りの大人が可愛い可愛いでもって、なんでも許しちゃうってのが、問題なんだろう。
大した問題じゃないから、ってどこの家庭でもやらせているから、問題になっちゃったときだけ、大きな問題になっちゃう。

『美味いものはまず大人が喰ってから』だと僕も思います。
まぁ、オイラなんかは安いものでも沢山食べちゃってますけどね。


震災の避難を呼びかけた女性の話は知りませんでした。

震災に関しては少しビビっていた話を書いたけれど、人はいつでも一歩踏み越えれば、そこに『死』があるわけで、その問題をどう自分の中で納めていくか。

昨年の『龍馬伝』が流行る前年に、僕は司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』を読んでいました。
最初は剣の強さ(を描写したところ)に魅了されたんですけどね。
読み進めていくうちに『維新回天』を目指す志の強さ、『死』など、これっぽっちも恐れない龍馬の『生き様』に、僕は勇気をもらいました。
僕はそれまで抱えていた自らの『死』への、漠然とした恐怖を取り除くことができたと思っていたんですけど。

今回の震災ではこうした人々、避難を促していた消防団の方とか、警察官とか、中国人研修生を助けた会社の社長さんとか、多くの人がお亡くなりになられてしまった。
ご家族やお身内の方々でなくとも悲しいことだし、とても残念なことです。

彼らの『死』は、きっとその『生き』ていた時の姿を明るく照らしてくれるでしょう。
本当に心よりご冥福をお祈り申し上げます。

生きている僕らは、その『死』を見つめなおし、また己の死がいつ訪れようとも、明るく照らすことができるような『生き様』を残していきたいものです。


ヘロくん、今後も楽しいトークを聞かせて下さい。
(ちなみにオイラは『iTunes』ラジオで、『ブルース』のチャンネルをBGMに流しておりますが、大変にラジオチックですよ。)

               (了)

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2011年1月16日 (日)

『 子どもの世界 』

小学三年生の甥っ子が、お正月休みに僕の義母である祖母の家に泊まったときの話。

たまたまふざけて入ったおばあちゃんの部屋のベッドに潜り込んだ。
するとなにやら温かい。

足下に『湯たんぽ』があったのだ。
更に彼はある物を見つけた。
『非常用の懐中電灯』である。

家では、リビングの隣の和室に蒲団を敷いて、お姉ちゃんとお母さんと三人で寝ているのだそうだ。
普段は灯りや家族の気配がないと寝られない甥。
目を離せば、DSばかりやっている彼が一時間以上も部屋から出てこなかったそうだ。

お義母さん曰く、
『一人でキャーキャー言って、随分と喜んで』いたらしい。

母とは違うぬくもりと、クッションの利いたベッドの中。
部屋を真っ暗にして、懐中電灯であちらこちら、蒲団の中を照らして喜ぶ小学三年生。

僕は想像した。
おそらくちょっとした『探検ごっこ』になったのではないか。
洞窟、もしくは博物館の中を照らすライト。
不気味な影が揺れる。
鍾乳洞、もしくはたくさんの歴史書が並ぶ書棚。

『宝は、どこにあるのだ。』
なんて呟いていたりしてね。

DSばかりやっている甘えん坊の甥が、子どもらしい好奇心や想像力をもっていたのだと少し安心した。

********************************************

僕は敵のアジトに監禁されている。
鋼鉄の扉は蹴っても叩いてもびくともしない。
助けを呼ぼうにも鉄格子の向こうに人の気配は全くない。

厭な予感がした。
足下から時限タイマーの音が聞こえてくる。
『チッチッチッチッチッチッ……』

『くっそぉー。』
僕は少しずつ焦リを感じ始めた。
しかし手の施しようがない。

僕は意を決してベルトのスイッチに手を掛けた。
『ヘッェーーーシーーーィン!!!』


バタバタいう木の扉を何度も叩きながら、僕は草色の陶器製の金隠しを跨いでいた。
便所下駄に乗る股下には、時より心地よい風が流れたりする。
僕の尻はすっかり冷たくなり、腿から膝から感覚はなくなっていた。

昭和五十年、僕の家の、長屋の便所はいわゆる『トッポン便所』だった。
ちょうど小学三年生の頃の僕はトイレに入るとそんなヒーローものの主人公になって遊んでいたのだ。


甥の行動がそんな『子どもの世界』を思い出させてくれたのだ。

               (了)

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2010年11月21日 (日)

『 酒の記憶 』  昭和56年

僕は甘いものも好きだけれど、酒も飲む。
今からちょうど30年前。

お祭り好きの同級生とつるんでいたら、自然と飲むようになった。
とは言っても、もちろん、雑草が知らないうちに生えてしまっているような自然ではないけどね。

当時は『ビール』か『ウィスキーの水割り』がほとんどで、たまに『日本酒』をやったくらい。
ビールは缶より瓶の方が多かった。
ほとんどの人が『キリンラガー』だった。
甘党の僕は、どこかで飲んだ『サッポロ黒ラベル』が好みの味となった。

ウィスキーはほぼ『サントリー』で、自分達で買うのは『ホワイト』。
友達の親父さんのを頂戴するときは、『だるま(オールド)』。
時たま、
『おいおい、今日はイイのがあるぜぃ。』
なんて小走りで持ってくるボトルが『リザーブ』だったりすると、ワクワクした記憶がある。
当時『リザーブ』だと、¥4,000くらいしたと思う。

ウィスキー好きの別の同級生が、
『日本のなら、『ニッカ』だね。』どこどこのなになにはエチルアルコール臭い、なんて一丁前のことを言っていた。


実際にアルコールを飲んだのは、幼い頃に口を付けた『ビールの泡』を除けば、一番最初は高校一年。
お祭り連中とは別で、入学したての高校のクラスメイト四人で飲んだ『コークハイ』だと思う。
場所はなんと、当時流行っていたカフェバー。
しかも、自由が丘である。

名前は忘れた。
『ストロベリー……』なんとかだったか。
角に『純喫茶マイアミ』があった道を右に入って2、30メートルくらい行ったところの左側、二階。

オールドアメリカンをコジャレに飾っていた店内。
薄暗くキラキラした中で、長靴型のグラスで飲んだ。
長靴なら『ビール』だったのかな。
『コークハイ』は普通のグラスか。
それと、『ソルティー・ドッグ』も飲んだと思う。

緊張してか、気を張っていたからかそんなには酔っ払わなかったはずだ。
たいして、量も飲んでいなかったのか。

紳士的に飲めたのだのだ。(高校一年で、なにが紳士的だ。)
なぜなら、今でもそのメンバーが一緒に飲んでくれているくらいだからね。
嫌われるようなことはしなかったって意味で。

もちろん僕にとっては初体験だったから、用心していたのかもしれない。

初めての酒の味は、『ビール』はともかく、(はたして『ビール』は飲んだのか、)甘い酒ばかり飲んでいたから、抵抗はなかったのかもしれない。

『甘いカクテルで酔いつぶれる女子』のようなこともなかった。

優しい男子四人で、『これからの高校生活を宜しく』的な会合だったのだろうか。
残念ながら内容は覚えていない。
ただ、ここが僕のアルコール歴のスタート地点だったということである。

               (了)

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2010年8月18日 (水)

夏休みの宿題『自由研究』  -3-

さぁ、『写真のできるまで』である。

どんな写真を撮ったのだろうか。
全く覚えていない。
写真は時代や現実や瞬間を記録するものなのに、写したもの自体を忘れてしまっているとは、皮肉なものだ。

撮影は白黒フィルムで撮られている。
なぜなら、それをフィルム現像して、乾燥してなんてのを全部やるからだ。

写真の現像はほとんどの時間を『暗室』と呼ばれる部屋で作業を行う。


『全暗黒の世界』

僕らは生活の中で、『暗い』ってったって、大概なにかしらが、薄ぼんやりとだって見えているはずだ。
しかし、フィルム現像の際は、一切の光りを遮断し、全くの暗闇の中で作業をしなければならない。
でないと、撮影したフィルムが感光してしまいパーになるからだ。

いつまで経ったって、眼が慣れて何かが見えてくるなんてことはない。
眼の前で指をチョキにしたって見えやしないから、ほんとにチョキなのかが疑わしく思えてくる。

印象的だったのは、この中で、フィルムケースから外し現像液に浸けた時のことだ。

ピンチで留めたフィルムをステンレスの棒に引っ掛けて、30cm真四角くらいの口で、120〜140cmくらいの深さのある現像液の入った器に浸していく。
フィルムがズレて重ならないようにそろりと静かに入れていく。

そして、フィルムが最後まで浸かったところで、
『コトコトコトコト』
とやるのだ。

この一連の動作はもちろん、全暗黒の世界で行われる。
この時の『コトコトコトコト』という擬音表現と『T』さんの声の優しい響きが印象に残っているのだ。

フィルムを浸けてから何分かは現像の時間で、全く見えない世界でひたすら待つ。
本来は。
でも今回は『T』さんと一緒だ。きっとこの後の作業の流れのことなど話したりしたのだろうが、覚えていない。

少し太くて、ハスキーがかった会津なまりのイントネーションで、こそこそと話した声の印象は残っているんだけどね。

時間が経ち、赤い電球を点け、フィルムの現像具合の様子を見たと思う。
OKなら、暗室の中で白い蛍光灯が、『パリン、パリン』とつけられる。
暗室の内側の黒いカーテンと扉が開けられ、外側の黒いカーテンも開け、表に出て、外の空気を吸うことができる。
この時の解放された感じを覚えているのは、二十代に再び写真を齧った時の記憶だろうか。

○ フィルムは『密着(コンタクト)』という、フィルムサイズのままプリントにされる。
○ その中から引き伸ばす写真を決め、赤いダーマトグラフでしるしを点ける。
○ 再び『暗室』に移動し、蛍光灯を消し、赤い電球の中で作業が始まる。
○ 選んだ写真を引き伸ばし機に装着。
○ 印画紙を乗せたことを想定し、フィルムがその上で大きく映し出し、ピントを合わす。
○ 印画紙を袋から取り出し、セット、脚で投影用ライトのスイッチを踏む。
○ 『12345678910111213……2223242526………』と、できるだけ速く数字を数えている間だけ踏み、印画紙をひらりと現像液の中にほうりこむ。
( これ、速く数えることで、やき具合を調整するのに役立つ。)
※ 部分的に強調したいところは『マスキング』などして、『追いやき』をする。
○ 赤い灯りのなかで、揺らめく液の中から、像が現れはじめる。先にゴムのついた木のはさみで裏返したり、表替えしたり。
( よく映画だとか、テレビドラマなんかで見るシーン。)
○ ちょうど良いモノを『定着液』に投入。
○ 水洗(流水ですすぎ)。沢山入っているので、印画紙が折れないよう気をつけて作業する。
( 冬はこの水がとても冷たい。)
( 四角いバットの中を四角い印画紙がくるくると回転しながら、回転する。)
( この時点では、印画紙はきちんと元の位置に片付けられ、明るい中での作業になっている。)
○ 乾燥。引き伸された印画紙の乾燥のため、水をきり、乾燥する。

☆ 出来上がり。

確かこんな内容を体験しながら、模造紙に図を描いたり、写真を貼ったり、解説をしたりしたものを持っていったはずである。

モノが出来上がっていく過程を観察することは、面白い。
それが、父親の仕事と密接に関わる内容だったので、なおさらだったのかもしれない。

               (つづく)

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2010年8月12日 (木)

夏休みの宿題『自由研究』  -2-

夏休み、小学三年生の少年と話す機会があったので、ちょっと訊いてみた。

『夏休みの自由研究は何をやるんだい。』

『DS』の画面につながれた視線を切らすことなく少年は応えた。
『うん……。習字。……。』
『習字って、それは冬休みの書き初めじゃないのぅ。』と僕。
『ううん。さっさと済ましちゃいたいから、……。』と少年。
『ふうん。』

子供達は忙しいのだ。
けど、僕はちょっと寂しくなった。
せめて、今流行りの『書道パフォーマンス』をやるとか、色をつけてみるとか、小さく書いて模様化するとか、授業ではできない習字をやって欲しかった。


じゃぁ、僕が小学生の頃にやった『自由研究』はといえばだ。
記憶に残っているのは、二つ三つだけ。

一つは1cm×30cmくらいに切った紙にフェルトペンで
五、六色の色を塗り、上下に交互に編んで、四角い籠を作った。
何年生だったろうか。

もう一つは『写真のできるまで』だ。
これは小学校高学年だと思う。

実は、家の押し入れから、ペンタックスかどこかのレンジファインダーの、いかにもカメラ的なデザインのカメラが出てきたことが発端だった。
もちろん銀塩のフィルムカメラだけどね。
これは父方のおじいさんが使っていたものだった。

そしてなにより僕の父がカメラマン(現代ではフォトグラファーと言う。)なので、こんなに良い教材はないのである。
とは言っても、指導してくれたのは弟子の『T』さんだった。

『T』さんは、福島県は会津若松の出身で、人懐っこく、(って、小学生の人懐っこい僕が思ったのではなく、大人になって、そうかなって思うようになった訳だ。)優しく、面倒見が良い人だったので僕は好きだった。

高校の時に器械体操部に所属していたそうで、当時一般人からすると、目の前で見るなんて滅多にできない『大車輪(鉄棒技)』なんかはちょちょいのちょい、くらいに話していた。
僕はそれだけで、尊敬し、羨望のまなざしで彼を見ていたもんだ。

仕事の後、父が弟子の人達を連れてきてうちで食事をする。
『T』さんが来ると、器械体操の話しになり、みんなで身体の柔らかさや、あれができる、これはできないなど、技の比べっこをした。
その中で僕は身体の柔らかさも、『脚前挙(きゃくぜんきょ)』(両手で身体を支持し、両足を膝を伸ばしたまま持ち上げる技。)の綺麗さも、自分で言うのもなんだけど『絶品』だった。

それが、まぁ褒められた。
僕は調子に乗り更なる高みを目指し、『開脚前挙』なる技に挑戦し、それまで成功させる。
『T』さん曰く、これは『C難度』だそうで、普通、尻が持ち上がらないらしい。

※解説:床の上で脚を前に出して、『V』の字に開く。
開いた股の前に両手をついて、尻と脚先を同時に挙げる。
その際、脚は膝を曲げず、ピンと伸ばす。

僕は更に、天に引っぱり上げる意識で尻をあげ、左右に開いた脚をそれぞれに後方へ回す。
脚が真横に来た頃には、尻は十分に上がっていて、上半身はほぼ、逆立ちの体勢になっている。
後は、開いた脚をゆっくりと上に。
この時尻は頭よりも前方に、倒れそうになるくらいに出っ張っている。

上腕と腹筋をワナワナさせながら、僕の身体はまっすぐになっている。
『開脚前挙からの倒立』の完成である。

0:57秒から1:00分のところ(ちなみにモデルは僕ではありません。)

http://www.geocities.co.jp/Athlete-Crete/8201/gym/yuka/1-12-03.gif
こんなこともできたのだ。
んー、いや、これは『T』さんがやったのかもしれない。
僕ができたのは『パワー倒立』の方だったか。
こちらの技は、また今度。

随分と話しが逸れてしまった。

               (つづく)

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2010年8月 7日 (土)

夏休みの宿題『自由研究』  -1-

あぁ、暑い。
年々暑くなっていくのだろうか。

クールビズで、ジャケットとネクタイを脱いだビジネスマンが増え、去年は半袖シャツ人口が増えた。
でも、今年は長袖シャツ人口が増えた気がする。
クールビズも口先ばかりで、今年は建物によっては未だにきっとキンキンに冷やしているに違いない。


温暖化の原因の一つに『ヒートアイランド現象』なんてのがある。
コンクリートジャングルから、ヒートアイランドだ。

暑いから、エアコンをかける。
熱交換をするから、排熱をする。
暑くなる。
さらにエアコンを強くかける。
悪循環だ。

エアコンに限らず電化製品は放熱をするしね。温暖化。

アスファルトも熱を吸収してくれない。
何年か前に、どこかの煉瓦メーカーだったと思うが、
『熱を吸収する道路素材を開発した。』なんて記事を『日経なんたら』で見た。
こんな会社の株を買うことこそが、投資ってもんだろうなんて思った記憶がある。
今、その会社の株はどうなっているのであろうか。


昭和四十年後半、僕の小学生の頃はまだ、ここまで暑くはなかったはずだ。
道路だって、アスファルトだったけどね。
明らかに違うのは、マンションの数とエアコンの設置件数だ。
集合住宅といえば、団地か公団住宅がほとんどで、エアコンといえば、窓付けのものが数えるくらいなもんだ。(あとは『秀和レジデンス』って高級マンションかなぁ。)

京浜工業地帯の街だったので、『熱中症注意報』ではなく、『光化学スモッグ注意報』が発令された時代だ。

プールや外での遊びを制限されたりしていた。
確かに、息が苦しくなったり、目も痛くなったりした。
今思えば、この頃の日本は何をやっていたんだと思う。

空気清浄機や浄水器、ウエットティッシュだ、除菌スプレーだなんていって、流行ってる現代が、嘘みたいだ。
サッカリンや合成着色料だとか、赤チンだとか、隣国の今と大差はないね。
まぁ、日本は四十年前の話しだけどね。

で、夏はやはり虫採りが中心だった。
寺、墓(地)、神社なんかを探索した。
僕がいまでも神社仏閣巡りを趣味としているのは、まさに奇遇だ。
そういった環境で楽しかったから、今でも好きなのかもしれないけどね。

でも、昆虫採集なんかはやらなかった。
夏休みの宿題で、『自由研究』の題材になるヤツ。

でも、うちの小学校で、それを発表していた子がいた記憶がない。
あの昆虫採集キットを買って貰える家庭、またそれを扱える子がいなかったのかもしれない。
この頃、僕の育った下町界隈には裕福で、文化レベルの高い家庭が少なかったってことなのかなぁ。

               (つづく)

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