青春

2010年7月29日 (木)

喫茶『 フラミンゴ 』  -閉店-

昭和五十八年、高校三年生の男子だった僕のデートは、『街歩き』と『喫茶店』ぐらいのものしかなかった。
遊びというと、男仲間(地元も高校も)と麻雀をするか酒をくらうのがもっぱらで、これといった趣味も興味も持っていなかった。
(『K』と渋谷、原宿にはよく行ったけどね)


時は『バブル経済』へ。
この頃、初めてスキーとか、ディスコとかに行ったからと言って、ハマることもなく、行動的な性格でもなかったので、バイクにもサーフィンにもバンドにも触手を伸ばすことはなかった。
(なぜなら、ビビりで金づちで不器用だからね。)
(『K』は全てをやっていたなぁ。)


そんな僕と『喫茶店』でお喋りをして、女の子は楽しかったのだろうか。
それでも僕は、『喫茶店』に向った。
適当なBGMとコーヒーの香り漂うまったりとした空間。
他愛のない戯れ言を語る時間。


高校の近くにあった『B』という喫茶店の(スパゲッティ)ミートソースやカレーライスやピラフは何度食べても飽きなかった。

ラグビー部、野球部。
バスケ(部)に陸上(部)のメンバーが、まぁよく集まっていた。
美術の先生もほぼ毎日いたけど、みんなタバコをぷかぷかとやっていた。

それぞれの笑顔や笑い声は、すぐに思い出されるけど、それにしても毎日毎日何を話していたのか。


僕が『喫茶 フラミンゴ』の構想を思いついたのは、まだ一年生のころだったと思う。二年生か。

この一年生の年、ビルボードのヒットチャートを瞬く間に駆け上がった新人がいた。
『クリストファー・クロス』である。
透き通った高音は、まるで女性のようだった。

『薄くても細くても、力強い耀きを放つクリスタルガラスのよう』
なんて、『渋谷陽一』氏ではなく、僕は評してみる。

『ニューヨークシティ セレナーデ』は映画の主題曲のようだったけど、黄昏れた大都会で繰り広げられるラブストーリーにはぴったりの曲だったと思う。

彼は、くりんくりんの金髪ヘアーの白ぽちゃ君でブラックコンテンポラリーのルックスとはほど遠い。

そして彼のファーストアルバムのジャケットに僕はやられた。
『フラミンゴ』だ。(『南から来た男』ワーナーミュージック・ジャパン)

今思えば、とりたてて僕が好むデザインではない。
なのに僕はそのモチーフを店のイメージキャラクターに選んだ。
(黒地にピンクの筆記体で”Flamingo"なんて店の看板を描いたりしてね。江戸趣味の今の僕からは考えにくいロゴだ。)


高校時代、僕は何になりたいなんて目標もなかった。
『社会』なんて認識なんかこれっぽっちも持ってやしなかった。
『将来』なんて漠然とも見据えることはなかった。

目の前の、毎日のこと、来るのが速いか、過ぎ去るのが速いか、そんな一日を送っていた。
ただ『大人』には単純に憧れていたのかもしれない。

『大人』が集まり、過ごす『喫茶店』に同席した僕は、それだけで悦にいっていたのかも。

クリストファー・クロスのアルバムジャケットは僕の高校時代の他愛もない夢の象徴だったということだろう。

南国の楽園で羽を休める優雅な佇まいは、今でも憧れではあるけどね。

毎度ありがとうございました。
               (了)

南から来た男Music南から来た男

アーティスト:クリストファー・クロス
販売元:ワーナーミュージック・ジャパン
発売日:2006/07/26
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2010年7月21日 (水)

喫茶『 フラミンゴ 』  -7-でした。-

高校三年の春、千葉県に『東京ディズニーランド』ができた。

『なんだよ、千葉じゃんかよ、なぁ。』
なんて馬鹿にして目もくれなかった。

その年の秋、高校の最後の遠足がその『ディズニーランド』だった。
僕は『スペースマウンテン』なんてのは苦手で、『ダンボ』なんかの方がよっぽど楽しかった。

持ち込みのお弁当を食べるのに、いったん場内の場外に出た。
出る時に押された透明のハンコが、耳を広げて暗闇を飛ぶダンボの上で、二つ並んでキラキラ輝いた時には、顔を見合わせて僕らは笑った。

しかしその後は、田舎から出てきた従兄弟達や親の知人の子供達を連れていく、色気の無い単なる行楽であり、遊興の場所になってしまった。
まぁ、面倒見は良かった方だと思う。


この頃になると、僕も女子とのデートに少し余裕が出てきた。
なんて言ったら、大袈裟だろうか。

僕は『ダンボ』の上にいた女の子と渋谷とか自由が丘だとかを待ち歩きした。

といっても数回ね。
ハンズ、西武、丸井にパルコ。
マルキュー(109)もあったはずだけど、行かなかったと思う。
結局、ウィンドウショッピングくらいしか、思いつかない。

自由が丘は、僕にとってはディズニーランドよりファンタジックだった。
通りやお店が一軒一軒趣向を凝らしていて。
『お金を稼ぐようになったら、こんな食器を揃えて……。』
『大人になったら、こんな家具に囲まれてみたい……。』
とかいう乙女チックな夢のようなものを抱きはじめていた。

で、一休みというと喫茶店に入る。
木製の床板。
ミュージックビデオを流す大画面のモニター。
『BOZE:ボーズ』の小さなスピーカーが天井から吊るされているのが、驚きであり、憧れでもあった。

僕はアイスコーヒーにストローをさし、お相手は紅茶の入ったカップアンドソーサーを持ち上げる。

他愛のないはなしが『楽しかった』のだろう。
ただ、いっぽうで緊張していたのも事実だった。
一時間半の間に、僕はなんと六回もトイレに行った。

行ったそばから、またトイレに行きたくなる。
それの繰り返し。
どうかしてしまったのか。
恥ずかしいなんてモンじゃない。
はなしなんて覚えていなくても当然だろう。

それでもカノジョは平静を装っていた。
カノジョが冷静に見えたのは、すでに短大に推薦で合格が決まっていたことも関係したのかもしれない
と思うのは穿った考えだろうか。

僕の受験勉強もこの頃から本格的にスタートした。

               (つづく)

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2010年7月13日 (火)

喫茶『 フラミンゴ 』  -6-

中学時代の仲間達は『永ちゃん』と『ユーミン』に走ったものが多かったと思う。

その頃、僕は洋楽を聴くようになっていた。
『ビルボード』ヒットチャートや『MTV』の番組が増えた影響だろう。

家に帰って、食事を終えると僕は、ラジオでFMの音楽番組にチューニングを合わせ、ベッドに横たわる。
何度も読み返した『ポパイ』や『ホットドッグプレス』や『Men's Club』を手に持ってね。

ラジオの魅力はやはり音楽と情報だ、なんて言うとダサイか。
いろんな曲がかかるのがイイ。
自分が好きになるミュージシャンを見つけられる楽しみがある。
好きなミュージシャンだったなら、特集もイイし。

パーソナリティと言われる番組のメイン司会者の人達になぜかしら親近感を覚えたりする。
行きつけの飲み屋のマスターみたいに。

彼らが、ピックアップした曲やミュージシャンの中で、『コレはイイぞ…』と思った人が売れると、あたかも自分が見出したような軽い錯覚に陥る。

それはパーソナリティ本人もそうだったようだけどね。
『渋谷陽一』氏が日本で『ワム!』を「いの一番」で取り上げたと言い張っていた(失礼!)、なんて例はまさにそれだ。

彼らが日本でもヒットチャートを駆け上がっていった時に渋谷氏の『どうだ!』的な放送内容の回が何度かあったような気がする。

実は自分では『ブラックコンテンポラリー』という黒人の大人っぽい曲が好きだったはずなのに、知らず知らずに僕が気に入ったミュージシャン達は『ワム!』を含めて、『フィル・コリンズ』や『スタイル・カウンシル』といった思い切りアングロサクソン人のミュージシャンだった。

『ポパイ』や『ホットドッグプレス』では、アイビーやプレッピーやトラディッショナルにサーファーといったファッションを、洋服だけでなくライフスタイルまで追い掛けて紙面を飾っていた。
よくいうところの『若者のバイブル』のようなといったら大袈裟か。

そのころから女の子とデート一つするのにも、マニュアルが無いと行動ができない男が増えてきた、と揶揄された、そんな時代を象徴した雑誌だったような気がする。
僕のはじめてのデートの時にはまだ読んでいなかったけどね。


高校時代に初めてやったアルバイトで、手にしたお金は、二週間で約五万円だった。
僕はそのお金で、最初から欲しいいものがあった。

『カセットデッキ』だ。(正式には『カセットテープレコーダーデッキ』とでもいうのだろうか。)
何それ、と思う人もいるだろう。

正月、僕はお年玉を握った子供よろしく、秋葉原電気街へと向った。
オーディオ雑誌を見、オーディオ通に聞き、だいたい買おうと思った機種は決めていた。
五、六店舗は廻っただろう。
結局最後にもう少し値切って、『¥45,500』。

ラジオを録音するだけの機械である。
そういう時代だったのだ。(今や¥10,000でも売られていないであろう、ビデオデッキが¥100,000以上していた時代だ。)

僕は『エアチェック』に夢中になっていた。
現在のように『レンタルCDショップ』もないし、『インターネット』も『You Tube』も無い時代に、僕はラジオから流れてくる洋楽を聴きまくり、録りまくった。

自分だけのオリジナルテープを何本も作った。
ロック、ブラックコンテンポラリー、ディスコ、ジャズ……

この頃からだと思う、カフェバーなんて呼び方をする店が流行りはじめたのは。
昼間は喫茶店、夜がバー。
そんなコジャレタお店でも流れている曲づくりにもチャレンジしたっけなぁ。

               (つづく)

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2010年7月 9日 (金)

喫茶『 フラミンゴ 』  -5-

僕はバイクに跨がり風を感じていた。
明治通りだったか。

味気ない街路樹が次から次へと後退していく。
首都高の下、爆音が辺りの空気を稲妻のようにつんざき、街路樹の葉を揺らした。

ヤマハ『XV400(ビラーゴ:じゃじゃ馬)』。日本車ではまだ珍しかったアメリカン(クルーザー)タイプの空冷4ストローク、『V』型2気筒、40馬力のエンジンを積んでいる。

モーターバイクのことを『鉄馬』とはよく言ったもんだ。
手綱ならぬスロットルを握るのは『K』。僕じゃない。

彼の後のシートで僕は『K』の出すスピードに少々ビビりながら、振り落とされないようバイクと『K』の腰にしがみついていた。


『K』は黒のジェットヘル(メット)で、茶色のコーデュロイのジャケットにデニムのジーンズ、靴はコンバースの赤のハイバス(くるぶしを隠すくらいの丈のキャンバス地のバスケットシューズ)と決まっていた。

僕はピンク地に白い塗料で彩られた半キャップ(原付自転車を乗るオバサン方がよく被っていた)を被らされていた。
『天上天下 唯我独尊』と書かれていた。(お釈迦様が生まれた時に言った言葉だそうだが、凡人が語るとなんと傲慢な文句なのだろうか。)
『K』の友人の暴走族のメンバーのヘルメットだった。

でも僕はチャコールグレーのサマーウールスラックスにリーガルのローファー(シューズ)、タッターソールチェックのボタンダウンシャツにベージュのスウィングトップといったコテコテのアイビーファッションに包まれていた。
自分でもとてもアンバランスだと感じていた。


僕らはその格好で、渋谷は公園通りパルコ前にバイクを停め、『バックドロップ』や『東急ハンズ』へ。

原宿に着くと『VAN』や『ブルックスブラザーズ』や『キディランド』をぶらついた後に『竹下通り』の『森永ラブ』で一服した。
煙草を吸うのは『K』だけだったけどね。
僕は覚えたてのアイスコーヒーをブラックで飲んでいた。


『K』の家に遊びに行くとアイスコーヒーを御馳走してくれるのだが、彼は自分がノンシュガー、ブラックで飲むもんだから客である僕にまでアイスコーヒーをブラックで出してきた。

『まいったなぁ、にげぇぜ。』
なんて思ってはいたけれど、まぁ、こちらも御馳走になる身で贅沢もいえず飲んでいたら、そのまま飲めるようになってしまったと言うのが実際のところだ。
それまでの僕はコーヒーなんて砂糖をたっぷり入れるかコーヒー牛乳くらいしか飲んではいなかったのにね。
これも大人への階段のひとつくらいに思っていたのかもしれない。


この頃、再放送で放映されていたテレビドラマ『探偵物語』(日本テレビ系列)に嵌まっていた。
主演の『松田優作』氏のコミカルなハードボイルドに魅了されていたのだ。

白のスーツに白のソフト(帽)。黒のスーツに黒のソフト。
カラフルなシャツに、カラフルなネクタイ。
ベスパ(イタリアのスクーター)やでかすぎる炎のライター。
ファッションやツールに憧れた。

『成田三樹夫』氏や『山西道広』氏などの名脇役に囲まれた、大人達のセクシーでファンキーで、ペーソスもあった味のある独特なドラマだった。

そしてオープニングとエンディングを飾った『SHOGUN』の音楽もカッコ良かったのだ。
僕はアルバムを借りて自分の永久保存版のカセットテープに録音した。


               (つづく)

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2010年6月20日 (日)

喫茶『 フラミンゴ 』  -4-

なぜだろう、普通、仲間が集まって何かをやろうと言えば、
『じゃぁ、チームの名前は』って、そのグループに名前をつけたがる。
なのに、彼らのバンドにはなぜか、名前がなかった。

彼らは、『キャロル』と『クールス』の曲を中心に十曲前後演奏した。
中学を卒業したばかりのロックバンドにとって、スリーコードで終始する曲(って、誰かが言っていた)は自分らをアピールする道具としてはうってつけだったのだ。
しかも、『キャロル』も『クールス』も当時のツッパリには、カリスマ的なバンドだったから、お客さんも呼びやすかったのかもしれない。

「ロックンローラー族」のカノジョらにとってはどう聞こえていたのだろうか。
『紫のハイウェイ』なんかだったら、そのままツイストを踊ってもおかしくはない。
舘ひろしの声は、ロカビリーだった。

キャロルの曲は、
『憎いあの娘』

『涙のテディボーイ』『愛の叫び』『ファンキーモンキーベイビー』
『夏の終わり』とかだったと思う。
みんなが知っている曲だから、会場は盛り上がる。

僕は曲に集中しながらも、カノジョらの表情をそれとなく確認したりした。
二人とも、話しながら、笑顔だった。
友達の方がちょっと晴れやかだった気がした。
そして、カノジョの方が猫背だったことが気に掛かった。

演奏の合間に、一度だけ話しかけた。
『どう、大丈夫?』
カノジョは
『うん。』とだけ言って、控えめに微笑んだ。

最後の演奏が終わると僕と友人は、カノジョらを置いて楽屋に行った。
カノジョらが遠慮したのだ。
正直、僕も照れくさかったので、その方が都合が良かった。

なかなか良かったよ、てな話しをしたり、次はいつやるの、みたいなことを話しかけた。
楽屋は中学時代のサッカー部、バスケ部、バレー部の同級生や、中学時代は宿敵だった中学のサッカー部の連中が集まっていた。
僕らの中学の近くにある高校にやって来た連中なので、(いわば『我々の島』)もう威張ってはいなかったし、みんなも受け入れていた。

そんな男仲間達との話しに夢中になっていると、スタジオの客席は従業員の方が、パイプ椅子をたたみはじめていた。

『あっれぇー。』(ヤバい。)
カノジョらがいなかったのだ。

僕は友人の『K』と表に出て、カノジョらを探して駅の方まで歩いて行った。
当時、携帯電話なんてものは勿論無かった。
そして、僕は落胆し、あきらめた。

『悪いことをしたなぁ。』と僕。
『ていうか、怒ったってことぉ?』と『K』。
『うん。』
『でも、普通、帰っちゃうかよぉ。』と『K』。
『うん。』

『K』は、お互いキツいことも言いあえるような、高校時代の親友になるのだが、必ず彼は僕を理解してくれた。


日曜日を挟んで、明けの月曜日、僕はカノジョに会わないように、また僕の視界にカノジョが入らないように目を不自然に動かしながら廊下を歩いた。

そうするしか無かった。
僕は逃げるように校舎から離れ、校門を飛び出していった。


翌日、カノジョの友達が僕を待ち伏せしていた。
『どうしたの?』
(って、それはこっちのセリフだ、と思いながら)
『なにが?』と聞いてみた。

『『N』(カノジョのことだ)が嫌われちゃったって、泣いていたよ。』とカノジョの友達。

(どうしてぇ?)
僕は混乱した。
そして、耐えられなくなった。

『嫌われたのはこっちだと思っていたのに、そんなこと言われても、』
という気持ちだった。

15歳の僕にはまだ、そういう人間の、男女の機微のようなものを理解する力はなかったし、結局相手に望むものなども特別には無かったのではないかと思う。

話によると、ライブの日、カノジョらが外にジュースを買いにいって、少しその辺をブラつき始めたタイミングで、僕と『K』が駅の方へカノジョらを探しにいってしまったようだ。

『ああ、そう。悪いけど、俺、そういうめんどくさいの、嫌いなんだ。』
と言って、僕の初めてのカノジョとの付き合いはあっという間に終わりを告げたのだった。

               (つづく)

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2010年6月12日 (土)

喫茶『 フラミンゴ 』  -3-

僕は不安だった。
だから、同じラグビー部の『K』に頼んで、付き添ってもらうことにした。

そう、初めてのデートにへだ。

そしてカノジョの方にも、友達を連れてきてもらうことにした。
その友達はラグビー部のもう一人の同じ学年のマネージャーだった。

ダブルデートと言ったら彼らに失礼かもしれない。
二人とも単なる付き添いでしかないのだから。

僕は地元のイベントに呼ぶことにした。
中学時代の同級生が開いたライブだった。

待ち合わせの場所で、後からやってきた『K』に手を挙げた。

会うなり『K』が言った。
『どんな曲をやるんだよ。』
『知らない。』
『知らない、って聞いてないのかよ。』
『うん。』
『もし、向こうが嫌いな曲とかやったら、どうするんだよ。』
『ああ……』
確かにそうだよなぁ、思った。

スタジオの最寄り駅で、カノジョ達を待った。

待ち合わせ時刻丁度くらいにカノジョ達は現れた。
二人ともロングスカートにブラウス。
友達の娘の方が、黒っぽいトーンで、髪はポニーテール。コンビシューズを履いていた。
(ロックン)ローラー族のレディースの格好だ。
『カノジョ』の方はショートカットなので、ピンクのカチューシャをしていた。
薄いピンクのブラウスの襟はまあるくカットされ、袖は提灯のように膨らんでいた。

僕はどぎまぎしていた。

『「クリームソーダ」だよ。』
と『K』が言った。

そういえば、カノジョ達が学校で赤いフレームのサングラスを掛けた猫のキャラクターの財布だかペンケースだかを見せ合っていたのを見かけたことがあった。(『TEMMYE』というソーダ。)
Temmye
『クリームソーダ』とは、'50'sのロックンロール、ロカビリーのファッションブランドだ。
当時、原宿ホコテン(歩行者天国)を埋め尽くしたロックンローラー御用達のメッカ的存在のショップだ。

僕のどぎまぎは、もちろん自分自身はファッションなどを特に気を遣ったりしていなかったのもちろんだが、『短い白い靴下』のイメージが、まさか時代の先端をゆくファッションとなって現れるとは思ってもみなかったからだ。('50'sなんだけどね)
カノジョ達は自分の好みを明らかに主張している。(ファッションだけでなく音楽もなのか。)

そんな僕のファッションは『リーバイス』のスリムジーンズ『603』に紺色のポロシャツ。(『taka Q』とかかな)
僕の一番のウリは、黄色のメッシュにブルーのスリーストライプス。『アディダス』のジョギングシューズだった。

サーファーでもあった友人の『K』は『JUN』の白いパラシュートパンツにピンクのラコステのポロシャツ。白のコンバースのハイバスを履いていた。


ライブまではまだ時間があったので、まずは近所の喫茶店に入った。
僕と『K』がアイスコーヒー。カノジョ達がアイスティー。
銅のカップにアイスコーヒーが輝き、あかね色の器が汗をかいていた。

もちろん僕自身も冷や汗をかいていたんだけどね。

                (つづく)

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2010年6月 8日 (火)

喫茶『 フラミンゴ 』  -2-

高校生になって、僕は初めて女子と付き合うことになる。

『カノジョ』ができたわけだ。

一年生の夏前、五月はゴールデンウィーク後頃のこと。
相手は同じ学年のラグビー部のマネージャー。

そう、僕は挫折をする一月半前に、そのラグビー部で一人の女の子に惚れてしまったのだ。

ショートカットでお人形さんのような娘(こ)だった。
ローファーシューズに白い靴下がくるぶしの上まであがっていた。
ローファーは輝き、靴下もまぶしいくらいに白かった。

歩く時に『コツコツコツコツ』と音が鳴り、これがまたお人形さんのようで可愛いのだ。


1981年。
その頃の高一の男子なんて、大概が『うぶ』だと思う。
僕だってその一人だった。

だいいち、中学時代なんてサッカーボールを追い掛けて、どこの国のなんていう選手が上手いとか、あそこのチームのユニフォームがカッコイイとか、アディダスの靴は細いから、プーマやオニツカの方が日本人の足に合っているとか、話すのが関の山だった。


勿論、女の子に興味がなかったわけじゃない。
毎年、一人や二人くらいは、女の子に惚れていたもんだ。(自慢にはならないけどね)

けど、その気持ちをどうして良いかがわからなかった。

『俺、あの娘が好きなんだ。』と友人に言うことはできても、
『僕と付き合って下さい。』と本人に言うことはできなかったのだ。

まぁ、『付き合う』ということがどういうことか、何をしたらいいのか、なんてことが今どきの若い子達のようには分かっていなかったんだけどね。

そんな僕が同じ十五歳の女の子と付き合いはじめたのだ。
中学を卒業したからといって、『カノジョ』との付き合い方が分かったわけではないのだけどね。


で、まず初めてしたことは、学校の最寄り駅までの通学路を一緒に歩いて帰ることだった。
駅までは、所要時間にして十分もない。
よろこびはつかの間のうちに終わるのだった。

それでも、思春期の小僧である僕にとっては、たかだか十分間ではあったけれども、自分のすぐ傍らに『カノジョ』が歩いているだけで、緊張と興奮が身体中を駆け巡っていたのだった。

その時の僕はたしかに震えていた。
だから『手をつなぐ』なんて行為を起こすことはなく、思いつきもしなかった。

でも実際には、きっと手をつなぎたかったんではないか。
ザ・ブルーハーツの唄のように『あれも』『これも』『もっと』したかったのかもしれないが、その時の僕には情動にすら表れることはなかった。

               (つづく)

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2010年6月 2日 (水)

喫茶『 フラミンゴ 』  -1-

『カラーン、コローン』

カウベルのような低い音色が店の玄関から鳴り響く。

入れたてのドリップコーヒーの香る店内。
天井に吊るされた小さなスピーカーからはこだわりのない洋楽が、空気を乱さないよう静かに流れている。

八人掛けのカウンターとテーブル席が三つ四つ。
白のカップアンドソーサー、トマト入りトーストサンド、ホットドッグ。

髭をはやしたマスターが若いお客さんと話している。
そのマスターが僕。

店の名前は『フラミンゴ』
黒をベースにピンクのロゴで”Flamingo”だ。

1980年代前半、高校生の僕はそんな薄ぼんやりした夢のような戯れ言を口にしていた。


高校一年の夏で、すでにラグビー部を挫折していた僕は、一緒に挫折したはずの仲間達と、週に二日は麻雀をしていた。

彼らとは高校の最寄り駅からすぐ近くにある喫茶店へもよく通った。
なんてことのない喫茶店だったが、広くて、安心して時間を過ごすことができた。
何があった訳でもないのに、ただ集まっているのが、楽しかったのかもしれない。

喫茶『B』


その年の冬休みに初めてのアルバイトをした。
当時の法定金額ギリギリの最低賃金だったのではないだろうか。
時給380円。
二子玉川にあったスーパー内の肉屋である。

裁断された肉を、鶏も豚も牛もスチロールトレイに乗せてはラップを巻いて熱圧着。
後は、品出し、陳列だ。

そのバイトには、高校の麻雀仲間の『H』が一緒だった。
初日、『H』が僕を昼飯に誘った。
その街にあったスポーツクラブの中のカフェで『H』の兄貴がバイトをしていたのだ。
KOボーイだった。
全体的に白を基調とした店内だったことを覚えている。

この場所でスカッシュでもやるの、と思えるようなスペース。
高い天井にはサーキュレーターの羽根が怠けているかのようにゆっくり回っていた。

当時でも、今でもちょっとしたお金持ちじゃないと入れない雰囲気。

『H』の兄貴がスパゲッティミートソースを作ってくれた。
『H』の兄貴は白いポロシャツにファーラーのパンツ。さらさらの髪を伸ばしていた。
サーファーファッションである。

この時、僕は朝から嗅ぎ続けた生肉の匂いが頭から離れず食欲をなくしていた。
こんなことは、後にも先にもこの時だけだ。


せっかくのカフェでのランチを食べそびれた僕ではあったが、そういえばこの頃から、いろんな喫茶店に通ってはその店のマッチを貰って集めていた。
タバコなんかはまだ、吸わなかったのにね。

               (つづく)

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